あらゆる形で
(ヨハネによる福音書20章27~29節)
新型コロナウイルスの感染拡大に伴う自粛、行動制限が行われるようになって1年以上が経ちました。その間、私自身も新しい任地へと遣わされ、社会的な環境と自分自身の環境の両方が様変わりしてしまいました。そのような中で、教会において〝いつもの礼拝〟〝いつもの活動〟が出来ない。それは、自分の働きが何を拠り所として良いのか分からず、世の自粛ムードと併せ、自分自身がバラバラになってしまうような経験でした。また、そのことは同時に、どんなときにもイエス様がいるから大丈夫!と自信を持って言えない自分の弱さがあらわにされたようでもありました。
そのような時、冒頭の聖句であるヨハネ福音書20章29節が頭に浮かびました。「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』」。この文章だけを取り上げるならば、何はなくともとにかく信じなさいと言われているようです。それはつまり、教会が、礼拝が、いつもと同じであろうとなかろうと信じなさいと言われているのでは…と感じるということです。そのように受け取ってしまうと、ますます落ち込んでしまいます。
ヨハネ福音書20章24~29節は、復活した主イエスが弟子たちの前に現れた際、その場に居合わせなかったトマスが、自分は見て傷に触れなければ復活を信じないと主張する場面です。「疑い深きトマス」などとも呼ばれています。このような俗称が生まれたのは、この聖書箇所が、「見ないのに信じる」ことができない者を咎めていると受け取られたこともあったからなのでしょう。
しかし、注目したいのは、主イエスが「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」とトマスに見せたことです。それによって、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白することです。
この「見て信じた」トマスと、「見ないのに信じる人は、幸い」という主イエスの言葉は、相反する事柄に思えます。しかし、このふたつの「見る」には違いがあるのです。
「見ないのに信じる人は、幸い」とは、主イエスが昇天された後の世代、主イエスに直接出会うことが出来ない人々に向けられた言葉だと言われています。
つまり、私たちやこれから先の未来にも、主イエスの祝福が与えられていることを示しています。その一方で、トマスが「見て信じた」とは、主イエスがトマスの信仰に必要なものは惜しみなくお与えくださることを示しています。それは、み言葉を聞くことによってだけでなく、私たちがあらゆる五感を通して主イエスを感じ、信仰への道が開かれているということです。
そのように受け取るならば、このふたつの「見る」は相反するものではありません。実際に私たちは、洗礼の際に水を注がれることや聖餐式でパンとぶどう酒を口にすること、讃美歌を歌うこと、隣人の手を取り祈ること、あらゆる五感を通して主イエスを感じているのです。
そのように考えるならば、私たちがコロナ禍において〝いつもの礼拝〟〝いつもの活動〟が失われていることによって信仰の危機に瀕することは、ある意味では当たり前のことなのかもしれません。そして、このようなことは、コロナ禍によって急に起こったことではありません。
高齢になり教会に来ることができなくなってしまった、働き方が多様化し日曜日の礼拝には出席できない、教会が合併され通える範囲に教会がなくなってしまった、そのようにこれまでにも徐々に起きていた問題が新型コロナウイルスによって、改めて顕在化されたのだと思います。
私自身、このような状況の中で、みなさんとどのように主イエスを一緒に感じることが出来るのかまだ分かりません。しかし、主イエスが十字架の死と復活を通して明らかにされた神の愛が、私たちのあらゆる働きを通してこの世界に実現されることを覚えたいと思います。
日本福音ルーテル大江教会牧師 森田哲史