主が共に
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
(マタイによる福音書 1・23)
私が遣わされている恵み野教会には、教会が建てられた当初から来られていたご高齢のご夫妻がいました。どれくらいご高齢かというと、作家の三浦綾子さんと青年時代に一緒に活動していたというぐらいにはご高齢でした。「綾子さんはね…」と親しそうに話す姿に、初めは「それほどの親しみを覚えるほどにたくさんの本を読んできたのか」と思っていましたら、本人と仲が良かったと聞かされた時には大変驚きました。そのご夫妻はいつも信仰の話を穏やかに話してくださり、まさに主が伝える「平安」を体現しているようなご夫妻でした。しかし、お二人ともご高齢であったため、今年の年初めから夫婦それぞれ施設に入ることになり、教会にはなかなか来られなくなってしまいました。最初は訪問させていただきましたが、COVID–19の影響により親族以外は施設に訪問することが出来なくなり、電話や手紙でのやり取りになっていきました。いつも穏やかであったお二人からも「寂しい」という声が次第に挙がるようになり、自粛という事態に重くのしかかる「孤立」という問題に直面することとなってしまったのです。今まであった関係の方々と交わりを持てないことの痛みはとても大きいものです。私たちが思う以上に「寂しい」という感情は苦しみを伴うのです。寂しさを携えながら日々を過ごさざるを得ない中で、そのご夫妻は5月、7月と短い期間でお二人とも天に召されました。
お見舞いはおろか、臨終の際にも少しの時間しか与えられず、誰もいない病室で静かに最期を迎えることはどれほどの痛みだったのだろうかと考えずにはいられませんでした。その悲しみの淵にある中で、ご遺族の方から「葬儀の際に読んでほしいみ言葉を本人が生前に決めていた」と伝えられました。そこで与えられたみ言葉はルカ24章36節、復活の主が弟子たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と語られた箇所でありました。そのみ言葉によって、まるで「私は大丈夫ですよ」と声をかけられているような感覚を抱き、ようやく私は思い起こしたのです。たとえ最期は一人であったとしても、その場所には必ず主が共にいてくださったはずだと。そのことを通して、私は大きな慰めを受け取ったのです。
今、私たちはマタイ福音書を読み進める年が与えられています。マタイ福音書は「神が我々と共にいてくださる」という言葉と共に始まっていく福音書です。まさに今、私たちが思い起こすべきみ言葉であるように思います。「主が共にいてくださる」というみ言葉を、私たちは今どれほどの喜びをもって受け取っているかを問い直したいのです。
私たちは今、COVID–19の影響により何もかもが中止となり、活力を失っている時期かもしれません。何が出来るだろうかと考えると常に、「何もしない方が良い」という答えが付きまといます。その結果、各地で孤立の痛みが起こっているように思います。だからと言って、なり振りかまわず活動再開をすれば良いというものでもありませんから、私たちは余計に葛藤を抱かされます。そんな私たちにできることはなによりもまず「主が共にいてくださる」という喜びをまず私たちが享受することではないでしょうか。苦しみと直面すると、私たちはその豊かさを見失っていきます。だからこそ、今一度思い起こしたいのです。私たちに与えられている信仰は必ず「主が共に」という喜びを与えてくださるのです。たとえどのような状況になろうとも、私たちは孤立することはないのです。そして今度はその喜びを誰かに伝えていくことが、今の私たちにできる働きであるように思います。その方法を考えることはまた難しいものですが、いつであっても私たちはまず、自らの豊かさから出発していきたいのです。
あなたは一人ではありません。いつも主が共にいてくださるのです。今もなお苦しみの中にある方々を覚えて祈り続けていきたいと願います。あなたがたに平和があるように。
日本福音ルーテル恵み野教会牧師・札幌教会協力牧師 中島和喜