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機関紙るうてる

るうてる2020年12月号

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「キリストが語る」

日本福音ルーテル日吉教会牧師 多田 哲

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネによる福音書1・14a)
言葉があまりに力なく思える時があります。言葉を口に出したその瞬間から空中に霧散していくような、あるいは、言葉が誰かの中に届くことなく世界の表面を滑り落ちていくような、そんな感覚があります。どれほど言葉を尽くしても空虚さが募っていくと感じることがあります。いえ、言葉を尽くすことさえ、もはやできていないのかもしれません。現代では、この世界の多くの言説について、考えたり、判断したり、掘り下げたりすることが避けられる傾向があるように思います。その原因の一つは加速する時代の変化かもしれません。情報化、グローバル化された現代社会では、あまりに多くの情報が私たちのもとに届きます。世界中の動きが時々刻々と伝わってきます。私たちの世界は、ある意味で、あまりにも拡大されてしまっています。その中では、一つ一つの情報を精査する余裕がありません。入ってくる情報をとりあえず処理していくことになります。そこで重宝されるのが、印象、単純さ、わかりやすさです。私たちは、日々、あまりに多くの情報を処理していく中で、いつしか、複雑で、わかりにくい、掘り下げた議論などを、もう受け付けにくくなってきているのです。そうなってくると、言葉は見た目だけどんどん派手になり、中身は置いてけぼりになります。言葉は重みを失い、言葉がとても空虚なものになってしまいます。現代においては、言葉、言説、語りというものが命を失っているようです。そのような世界の中で、私たちは神の言葉さえも氾濫する空虚な言葉に埋もれて見失っているのではないでしょうか。

フランスの哲学者ミシェル・アンリは著書『キリストの言葉』の中で「今日、〈神の言葉〉は単に理解されないままであるばかりか、〈神の言葉〉なるものがありうるということすら考え及ばなくなっている。」「現代社会の絶え間ない喧騒こそが、そこから〈神の言葉〉が語り出される沈黙の領域を永久に覆い尽くしてしまったのである。われわれにはもう〈神の言葉〉が聞こえないのだ」と述べています。この本の邦題は『キリストの言葉』となっていますが、フランス語の原題は”Paroles du Christ”で、『キリストの語り』とも訳せます。フランス語の聖書ではヨハネによる福音書1章1節の「初めに言があった」のところが”Au commencement était la Parole” と書かれていますので、神の言葉はキリストの語りだと言うことができます。私たちが神の言葉を世界にあふれる情報の一つとして処理してしまううちに、それがキリストの語りであることを忘れてしまっています。語りには、語っている生きた主体があり、息遣いがあり、思いが込められていますが、その語りを聴くには静かに耳を傾ける時間と場所が必要です。語りは語られる客体ではなく、それを聴いて受け取る者の〈生〉に到来するのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とは、どういうことなのでしょう。どのようにして言が肉になるのでしょう。この聖句を聴いて私たちは戸惑います。しかし、この戸惑いが私たちにとって大事なのです。神の言葉は、私たちが情報処理する対象としてではなく、語りの主体としてのキリストが私たちの〈生〉に迫ってくるのです。私たちは神の言葉の主体ではないのです。神の言葉は客体として私たちの外にあるのではなく、私たちを生かす命として私たちの内にあり、常に私たちに語りかけます。人の口から出る言葉は無力だとしても、内なる神の言葉は私たちの〈生〉を揺さぶります。そして、どんなに私たちが世界に絶望しようとも、神の言葉はキリストが主体であるがゆえに、私たちに語り続けます。キリストの語りが肉となって私たちの内に宿られたのですから、もはや私たちの〈生〉はキリストと共にあります。そのことに信頼して、言葉の氾濫に埋もれてしまうことのないように、神の言葉に耳を傾けましょう。

命のことば 伊藤早奈

⑨「伝える」

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネによる福音書1・4)

「あ・か・さ・た・な」「あ・い・う・え・お」ベッドや車椅子に仰向けのその人の目を見ながらヘルパーさんが言葉を読まれます。何だかわかりますか?病気で体から音による言葉を発声することが難しくなられた方との会話です。瞬きで音を選び会話をします。違う音を言うと長い瞬きをして違うと言います。いろんな言葉を見てきたような気がします。手話もその一つだと思います。音も無く口を動かしてしゃべる方。携帯電話のメールでしゃべる方。きっとまだまだたくさんの方法が私たちには与えられています。そういえば言葉を機械に打ち込んで、その機械がしゃべるという方もおられました。筆談の方も。神様であるイエス様も同じです。「私はいつもあなたと共にいるよ。」とたった一言伝えたいのに。 そのお姿さえも見えません。私も筆談を必要とされる方たちに「字が書けません。」と何度お伝えしようとしても耳がご不自由な方たちだったので言語では聞こえないようで私に何度もペンを持たせました。一人の方は時間が許されたのでPCで文字を打って伝えました。伝えたい、できない、伝わらない。思いや言葉はどちらか一方が努力しなくてはならないものではなく、伝える側も伝えられる側も両方の静かな時間が必要なのかもしれません。いろいろな方法で伝えようとするそれを聴こうとすることは相手と静かに向き合うことのように思います。

議長室から
「魂の志向性〜アドヴェント黙想」

総会議長 大柴譲治

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイによる福音書2・10)

今年もアドヴェントに入り教会暦は新しい1年が始まりました。私たちは今ここで2千年前の「キリストの降誕」と終わりの日の「キリストの再臨」という二つの「時」の間を生きています。方位を示す磁石が地球の地磁気に対応して北を指してピタッと止まるように、「神のかたち」に造られた私たちの魂も神の愛に応じて神に向くように初めから定められています。だからこそアウグスティヌスの言葉がストンと腑に落ちるのでしょう。「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』、山田晶訳)。私たちの魂は神への志向性を持っているのです。ルカ福音書が記すマリアの讃歌もシメオンの讃歌もそのことを証ししています。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1・46〜47)。「今、わたしは主の救いを見ました。主よ、あなたはみ言葉のとおり、しもべを安らかに去らせてくださいます」(青式文「ヌンクディミティス」)。救い主と出会う喜びこそ福音の基調音であり、私たちの人生はそのような祝福に向けられています。

アドヴェントは「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ」という「荒野の声」から始まります。「荒野の40年」であるこの人生では進むべき方向が見失われてしまうこともある。東からの博士がベツレヘムの星を目印に夜の旅を続けたように、私たちもキリストの光を目指してこの世の巡礼の旅を続けてゆきます。光は闇の中に輝いています。しかし頼りは星の光ですから、昼間は見えませんし雨や曇りの夜も見えません。夜の闇で星の方角と足下の地面の両方を確認しながらの時間のかかる手探り旅。私たちが携えるべき「黄金、乳香、没薬」とは何か。それは私たちがこれまでそれぞれに大切にしてきた宝物です。一説にはそれらは博士たちが用いた占星術の道具だったとも言われます。とすれば博士たちは自分たちの古い生き方をすべて幼子に託したということになる。彼らはそこで喜びにあふれる新しい人生を発見したのです(マタイ2・10)。

私たちもまたご一緒にキリストの日に向けて旅を続けてゆきたいと思います。クリスマスには天からみ使いたちの歌声が響いてきます。「天には栄光、地には平和」。

COVID-19のために今年は例年と少し異なる状況にありますが、ご一緒に天からの言祝ぎの声に共に耳を澄ませてゆきたいのです。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑥讃美歌委員からの声⑴
讃美歌委員会 松本 義宣 (東京教会牧師)

委員長から5回にわたり紹介された「増補」版作成の末席に加えられ、作業に携わりました。賛美歌に関わること、訳詞をはじめ「歌」を作るという作業は初めてで、戸惑いや試行錯誤ばかりでしたが、改めて先達が歌い継ぎ、育んで来た賛美歌や歌集の大切さや重要性に思いをはせる得難い体験でした。これまでは特に深く考えもせずに、好き嫌いや易しい難しいといった範疇でしかとらえて来ませんでしたが、改めて教会で、礼拝で、私たちが共に歌うこと、そこで告げられる「信仰の言葉」、聖書から、作者の信仰や経験から紡ぎ出され、それを共有し、さらに隣人に届けていく、その賛美歌の意味と意義、何より喜びと素晴らしさを痛感しています。収録歌の紹介はいずれこの欄でする予定です。

しかし今回はやはり、この新型ウイルス感染症下の「賛美歌」について考えたいのです。「共に声を合わせて歌うこと」、これが感染リスクの面で避けねばならぬことだというのはなんと辛いことか。改めて歌うことの恵みが特別なことだと痛感します。多くの教会でやっと再開された礼拝ですが、「賛美歌は歌わない」ように、あるいはマスクの下で口ずさむ程度で」といった状況でしょう。しかし「歌のない、歌えない賛美歌」のこの状況が、かえって賛美歌の本質を私たちに教えるチャンスになったのです。それは歌詞である「ことば」に集中するということです。これまで賛美歌を歌う時、ともすれば陥りがちだったのは、自分たちが思いっきり歌えたかに関心や興味が集中し、歌詞の意味よりは馴染みの曲(旋律)に心地よくなり、好きな歌が歌えた満足や高揚感に浸りがち!裏返せば、知らない曲や馴染みのない賛美歌は、必死で歌おうとするあまり、内容なんてさっぱり心にも頭にも残らない、信仰の養いどころか、不平・不満の種にしかならない、そんな傾向が私たちの「あるある」だったのではないでしょうか?

しかし、歌わない・歌えないけど、賛美歌を「真に歌う」ことができるようになったのです。歌詞を聞く、その言葉を改めて聞くのです。ルター先生は言います。「賛美歌は会衆の行う説教である」。信仰の内面から湧き上がってきた祈り、賛美、感謝、決意、応答等々、それを味わい、歌わなくても共有したいのです。

さて、それを自分でもやってみてさらに気づかされたこと、それは、正直にあえて言いましょう。「教会讃美歌」の歌詞には、今の私たち、あるいは若い人に届かない言葉になっている、ピンこない箇所がかなり散見される、という事実!です。初版から46年、かなり「賞味期限切れ」!?増補版の作成は「教会讃美歌」を新たに編纂していく時の大切な作業であることをご理解頂ければと思います。

私たちの礼拝—式文ハンドブック—

⑤招かれ「みことば」を聴く
松本 義宣(式文委員会委員長 東京教会牧師)

前号で、礼拝の始まりが「招き」であり、私たち自らの意志ではなく、神様の招きに応じて集うことを確認しました。それは、この日の礼拝だけにとどまらず、「洗礼への招き」が内在すること、つまり礼拝が、神様の確かな救いのしるしである聖礼典(洗礼と聖餐)の出来事だということを指し示すのです。そして、それをもたらすのが「みことば」です。水やパン・ぶどう酒という物素そのものではなく、それが主の「みことば」と共にあることによって起こります(小教理問答「エンキリディオン」の洗礼と聖餐の箇所参照)。そのために、神様は私たちを招いてくださるのです。ですから、「招き」に続いて、この礼拝において「みことば」が告げられ、私たちはそれを聴くのです。

そこでは、主に教会暦に従った聖書朗読日課による聖書の言葉とその解き明かしの説教を通して「みことば」=福音を聴きます。それが究極的には、上記の意味で「救いのしるし」、それをもたらし、行う神様の御業そのものとして、私たちは受け止めるのです。

現在、COVID-19感染症下の対応で、礼拝は再開したものの「聖餐式」は自粛を余儀なくされている教会もあることでしょう。これまで当たり前と思っていたことが、まさに得難い貴重な「恵み」であることを、改めて痛感させられています。礼拝に自由に集えない、自由に賛美できず、聖餐に与れないことに後ろめたさや不満、特に聖餐式がないことに、ある種、これで礼拝かと疑問をお持ちの方もあるかもしれません。

しかし、パンとぶどう酒の聖餐に現状では与れない状況があったとしても、神の救いの出来事を指し示し行うのは「みことば」であること、このような状況であるからこそ、改めて強く「みことば」に聴くという礼拝を大切にしたいのです。集えない現状でも、各教会でそれぞれの取り組みがなされ、「みことば」に触れる手立てを講じています。

確かに「共に一つ所に集う」という形はとれなくても、「みことば」を聴き、その「みことば」を通して聖霊が働き、それぞれの場で、私たちは「一つとされていく」ことを信じましょう。

パンデミックの中のディアコニア

社会福祉法人千葉ベタニヤホーム
理事・法人施設長会会長 川口 学(国府台母子ホーム施設長 市川教会)

2021年に事業創設90周年を迎える千葉ベタニヤホームです。現在、旭ヶ丘母子ホーム、旭ヶ丘保育園、児童家庭支援センター・旭ヶ丘(千葉市内)、国府台母子ホーム、国府台保育園、こあらっここどもセンター、児童家庭支援センター・こうのだい(市川市内)、青い鳥ホーム(船橋市内)を運営しています。

毎月開催される「法人施設長会」では、新型コロナウイルスの感染拡大防止を図るために、情報交換や協議を行っています。①各施設の現況報告、②日々の消毒や除菌等の方法、③緊急事態宣言下等における職員の勤務、④虐待が懸念される家庭への切れ目の無い関わり、⑤新しい生活様式を踏まえた支援・保育・家庭訪問相談のあり方、⑥5段階程度の各ステージ(地域の感染状況)に応じた行動基準やガイドラインの策定、⑦コロナ禍における法人総合防災訓練の計画化等と、内容は多岐にわたります。全施設で同様に対応することもあります。また、他施設の工夫を自施設に持ち帰り、職員間で検討し実践に活かしていくこともあります。

感染症が世界的規模で、また施設近隣で同時に流行する社会の中で、他者に「仕える」ことの意義や方法が改めて問われます。来年2月に開催される当法人全役職員総会・研修会では「新しい生活様式に基づく保育・家族支援について〜Withコロナ時代の家族支援」と題して発表と協議を重ねてまいります。事業創設90周年を記念した新規事業へと発展させていきたいものです。

早いもので今年もクリスマスを迎える季節となりました。チャプレンの市川教会の中島康文先生は「いつもと違う・・・」という考えはやめて、「今年はどのようにして迎えようか」という発想をお示し下さいます。国府台母子ホームでは、数回に分ける礼拝スタイル、祝会の内容、お弁当のメニュー決め等、楽しんで準備をしています。でも、いつもと違わないことがあります。ホームクリスマスのテーマは昨年と同じです。
You are Loved.
まず神様が私を愛して下さっています。

社会福祉法人 あゆみの家
総合施設長 田口道治(大垣教会)

「あなたの慈しみは大きく、天に満ち/あなたのまことは大きく、雲を覆います。」(詩編57・11)

あゆみの家は日本のほぼ中央部、濃尾平野の西北端に位置しています。施設や事業所(※)は、岐阜県大垣市や垂井町、養老町に点在し、障がいのある人たちの生活支援や日中活動、就労支援、地域生活支援に取り組んでいます。来年は創立50周年を迎えます。

本年(2020)2月に岐阜県内で最初の新型コロナウイルス感染症の感染発生ニュースが報道されて以降、あゆみの家の施設・各事業所でもマスクの着用、手指消毒など標準予防策の励行、3密の回避など感染防止のための様々な取組をしてきました。また、入所施設やグループホームにおける集団感染の発生に備えて、法人全体での職員の応援体制整備も検討し、これまでにあゆみの家独自の「対応マニュアル」や月毎に異なる「感染防止対策確認一覧表」などを作成して皆で意思統一を図りながら取り組んでいます。

支援の現場では、重度の知的障がいなど支援を必要とされる方々の障がい特性により、マスク着用が難しかったり、食事や衣服の着脱、入浴の介助等、日常生活面での密接支援は不可欠で3密の回避が困難な現実があります。

外出の自粛など従来の活動や行動範囲が大きく制約、制限され、不自由で窮屈な生活が続いて8カ月以上が経ちますが、こうした中にあって、これまでに無かった活動も生まれてきました。例えば、通所事業所「デイセンターあゆみの家」では、利用者の感性を表現する絵画や書などの芸術活動に積極的に取り組み、県内の作品展に出品した作品は岐阜県知事賞を受賞しました。細やかであっても、こうした新たな活動の芽が成長し、障がいのある方々が社会とのつながりを深め、インクルーシブな社会づくりに貢献できることを願っています。
(※)あゆみの家インターネットWebサイト
https://ayumi-ie.com/

世界の教会の声

浅野 直樹Sr.(世界宣教主事  市ヶ谷・スオミ教会牧師)

コロナ禍に高まる結束②

(元の記事のURL)
https://www.lutheranworld.org/news/covid-19-new-awareness-social-cohesion-growing-crisis

—なぜこれほどまでとは思わなかったのですか?
「過去数十年は、個人主義が極端なまでに進んでしまっていたからです。個人の自由、それは裏返せば社会的意識の欠如なんですが、これが善の終着点のように見えていました。ところが今回の危機によって新たな気づきが起きていて、社会のつながりや、隣人と共に生きていくために為すべき自分の使命に気づくようになっています。こうした態度がこれまで以上に必要となっています。」

—それはなぜでしょうか。
「パンデミックは多くの深刻な問いを投げかけました。これは直面している状況をはるかに超えて、人間社会の体系そのものに対する問いでもあります。たとえば経済です。コロナ禍によって経済が今後どうなっていくのか、まだ先が見えません。政治面と財政面での大規模なてこ入れは応急的には有効で、それによって社会全体が崩壊しないよう食い止めています。
同時に問わねばならないのは、現存する数多くの長期的かつ根本的な課題です。今のやり方を今後も続けるのかどうかです。たとえば輸送、エネルギー、サプライチェーンなどの産業が持続可能なスタイルに形を変えていくようにもっと働きかけるべきか、すべきでないか。」

—これ以上悪くならないようにするにはどうしたらよいかというときに、そこまで考えるのは行き過ぎといえませんか?
「今がそのときです。これほどまでに問題意識が高まったことは、かつてないのです。ドイツの自動車業界は、この危機に面して移動と輸送のあり方を根本的に考え直しています。肉食産業は、コロナ禍で肉製品の摂り過ぎが改めて取り立たされるなか、生物、人間、環境を犠牲にしてまで消費を優先することを問題にしています。この二つは、今ドイツで懸案になっている事例です。対策をとらなければならないというプレッシャーは、コロナ禍になって高まっているわけですが、このプレッシャーが次のステップにつながります。こうした問題はもはや後回しできないので、経済の問題をもっと真剣に検討しなければなりません。また止めどもない成長の論理と、生活全般で膨れ上がる商業化、それに我々の消費主義と便利さを追求することも問題です。」(以下、次号に続く)

【報告とお詫び】
既にお伝えしております通り、機関紙『るうてる』2020年10月号1面説教における「依存症」に関する記述について、編集部ならびに教会事務局において調査と協議を行いました。執筆者と読者層との文化的・社会的文脈の相違についての必要な配慮と対応を編集部が前もって行わなかったために、翻訳ならびに構成の吟味が不充分となり、執筆者の意図しない形で読者を傷つける表現となってしまったことを確認いたしました。依存症当事者の方々ならびに支援者の方々を傷つけてしまったことを心よりお詫び申し上げます。
なお当該記事に関しては改訂版を作成し、インターネットサイト上にて再公開いたします。また今後の再発を防止するために、機関紙編集に際しての必要な対応について再確認をいたしました。以上、謹んで報告いたします。

2020年度日本ルーテル神学校オープンセミナー

河田 優(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校チャプレン)

日本福音ルーテル教会、日本ルーテル教団、日本ルーテル神学校共催の「神学校オープンセミナリー」、本年度は新型コロナウイルスの影響もあり、同時双方向通信のZoomを用いて行われました。初めての試みであり準備の段階から不安もありましたが、結果、北海道から九州まで10名(内JELCからの参加者8名)の参加があり、昨年度を超えるものでした。インターネットを用いた効果と言えるでしょう。

第1部は開会礼拝から始まり、神学教育委員長である三浦知夫先生は主にある繋がりについて話されました。その後は神学校紹介がメインです。 互いに自己紹介をした後、大串肇先生(神学校教員・日本基督教団仙川教会牧師)が「新型コロナ禍の中で神学をする—旧約聖書から—」と題して講義を行いました。短い時間ですが参加者は「神学と共に聖書を読む」体験ができたことでしょう。

神学生を中心に進められた第2部には2人の若手牧師も加わり、互いの思いを分かち合っていきました。緊張気味だった参加者も次第にリラックスしていき、話し合いが進みます。神学校での学びや生活に対する質問から、将来の進路まで互いに語りあう中、主の導きを分かち合う恵まれた時となりました。閉会礼拝で神学生が証しを行い、本年度のオープンセミナリーは終了しました。来年度以降も継続してオープンセミナリーが開催されます。教会の将来を支える催しです。これからも皆様と共に祈りを合わせ、献身へと導かれる者たちの神学校、そして牧師への道を整えていきたいと心から望みます。

オープンセミナリーに参加して
東静(保谷教会)

オンラインでのオープンセミナリー。私はオープンセミナリーに初めて参加することができた。私自身が参加したきっかけは、神学を学ぶことに興味があったからだが、神学校で学ぶという決意には至っていなかった。しかしそんな私でも参加することが許され、非常に嬉しかった。また、例年通り神学校での開催では、0歳の娘がいる為参加できなかっただろう。今年の開催がオンラインであったからこそ、参加の一歩を踏み出すことができた。

参加する前は緊張していたが、プログラムのなかで自己紹介やアイスブレイクを行って下さり、リラックスして参加することができた。参加者の皆さんのことも知ることができた。礼拝や講義、アイスブレイク等内容も盛りだくさんで、長丁場ではあったがあっという間に感じた。特に大串先生の講義では、わかりやすくお話頂き、「シンガクって難しそう」と考えていた私でも神学の世界を少し覗いた気分になりとても嬉しかった。もっと深く学んでみたいと思わされた。また、質問コーナーも設けて下さり、神学校についての質問から献身のきっかけについてまで、幅広く神学生の皆さん、現在牧師として働かれている先生方にもお答え頂き、貴重な機会となった。

「コロナ禍だから」今年は直接顔を合わせることができずオンラインでの開催だったが、しかし「コロナ禍だからこそ」、文頭でもお話したとおり幼い娘がいても参加できた。

また、遠く離れていても、パソコンの画面上でも献身の志がある参加者の皆さん、先生方と顔を合わせることで、一つのところで祈り、礼拝しているような気分になった。場所は関係なく、ともに祈り礼拝することが可能であることを再確認でき、とても心強く感じた。次回はぜひとも、オンラインではなく実際に顔を合わせてのオープンセミナリーに、是非参加したい。

コロナと「まことの礼拝」—秋のルター・セミナー報告—

江口 再起 (ルター研究所所長)

2020年はコロナの年、世界史に特筆すべき年となった。世界も個人の生活も、そして教会も激変を味わった。それを受けてルター研究所では6月に3回、ルターのペスト書簡の問題などをめぐって「臨時ルター・セミナー」を開催した(現職牧師対象、ズーム形式)。ところが秋以降もコロナは収まるどころか猛威を振るっている。教会の活動や礼拝も、やや落ち着きを取り戻したとはいえ、元通りではない。そこで10月22日、前回と同じやり方で秋のルター・セミナーを開催することにした(参加、約25名)。テーマは「コロナの時代に教会・礼拝を考える」。立山忠浩牧師の発題の後、全員で協議、学びの時を持った。

立山牧師は次のように発題した。たとえ治療薬やワクチンができても、世界はパンデミック以前には戻らないのではないか。教会もその例外ではない。そこででてくるのは「礼拝」への問いである。

日本福音ルーテル教会では、3月26日に大柴譲治議長の談話が発表され、「すべての命を守る観点から、〔礼拝など〕状況に柔軟に対処しよう」ということになった。従来どおりの対面礼拝ができなければ、オンライン礼拝や文書礼拝のすすめである。この方針を立山牧師は、ルターの著作(「大教理問答書」、「ガラテア大講解」、「会衆の礼拝式について」など)を通して丁寧に検討。もちろん聖餐式の問題についても深く検討。しかし更に、歩みを一歩すすめ、ルターにさかのぼるだけでなく、まず何よりも「聖書」に耳を澄ますことの大切さを強調した。

礼拝とは何か。そこで指摘されたのが、ヨハネ福音書4章に記されているイエスとサマリアの女の問答である。そこでイエスは「まことの礼拝」ということを語っている。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(4章23節)。礼拝とは何か、「まことの礼拝」とは何か。ぜひ、聖書を開いてその箇所を読んでいただきたい。

発題の後、参加者全員で検討協議した。オンライン礼拝では、つながる人つながらない人がでてくる…。「共に」礼拝を守るという場合、それは同じ「場所」というだけでなく、たとえ離れていても同じ「時」は共有できるのではないか、等々。内容豊かなルター・セミナーであった(より詳しい報告は、「ルター新聞」75号に掲載予定)。

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