1. HOME
  2. ブログ
  3. バイブルエッセイ
  4. 「まなざしによる診断」
刊行物

BLOG

バイブルエッセイ

「まなざしによる診断」

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ福音書9・12~13)

 付き添っての同乗は数回あるが、自分の搬送で、救急車に乗ったのは(今のところ!)1回だけです。入院の経験もその時だけで、それも日本ではなく、交換牧師としてドイツ滞在中のことでした。夏の休暇で家族と旅行に出て、ルター先生も滞在したコーブルクに泊まった初日の夜、突然、原因不明の痛みに襲われ、真夜中に救急車を呼び、病院に運ばれ診察の結果、胆石と分かりその場で手術、一週間の入院、旅行もキャンセル。異国の病室で痛みを経験して初めて、「言い古された言葉ですが、『病気になって知る健康の有り難さ』を痛感しました。もちろん、今も健康に不安をお持ちの方には、こんなささいなことは恥ずかしいが、何しろ生まれて初めてづくしだったので、忘れられない体験です。

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。徴税人マタイを弟子に招き、引き続き彼の家で、彼の仲間や罪人と一緒に食事した時、「なぜ、あなたは徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問われてイエス様が答えます。「罪人」とは、律法を守らず、守れない人と見なされていた人々です。徴税人も同等にみなされたのは、彼らがローマ帝国の徴税業務を担い、神の民が異国の重税にあえぐ反感に加え、特権で私腹を肥やしもしたからです。憎まれれば憎まれるほど、かえってあくどく振る舞い疎まれる悪循環でした。

 収税所に座るマタイは、ただ住民から税を取るだけではなく、交易のために道を行き交う人から通行税を取り立てもしただろう。課税のため通行人にも鋭く視線を投げかけ、通行人も、そんな彼の視線を憎しみとさげすみの目で見返す。そんな視線の交差の中で、しかし、全くこれまで経験のないまなざしが投げかけられた。その新たな視線の持ち主は、通りがかりに、彼を見かけて一言「わたしに従いなさい」と声をかけただけです。彼は立ち上がりその人に従う。決断に理由はないが、彼を捕らえた視線、彼をして立ち上がらせ、従わせた視線が語ったのが、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」でした。そのまなざしの新しさは、全てを見通しつつも不思議な目でした。厳しいが、他の誰もが投げ返すさげすみや憎しみはない。また単なる憐憫れんびんでもない。はっきりと「お前は医者を必要とする病人だ」、さらに「正しい人ではなく、そういう病人・罪人を招くためにわたしは来た」と語っていた。

 罪人だと指摘するだけの視線はいくらでもあった。しかし、イエス様の視線は、ただ裁き、罪人と断定するのではなく、招く目、その罪という病気を見いだし、癒やす医者の目でもあった。弟子として呼び出すだけでなく、新しい人生を歩むように招く。マタイは、自分が罪という癒やされがたい病気の床にあることを明確に知らされる。そして、その状況を見抜き、自覚をうながし、癒やしへと招く、そういう医者がこの方だと知らされる。

 人はこの医者にかからねばならない。それを彼は身をもって示した。イエス様は、そのような医者として来られた。私たちの「罪という病」の診断を下しそれを癒やすため、しかしこの医者は、その病を癒やす治療を、思いがけない形でする。聴診器片手にさっそうと現れ手術をし、処方箋を書き、薬を出すのではなく、病人の横に自ら病気となり横たわり、いえ、十字架の上にその身を投げ出し病人の代わりに、その病を根源から癒やすために死んでくださる医者だった。病気を治すために、自らの命で病人を癒やす医者。その治療によって、私たちは元気になるだけではない、神様の永遠の命へと招かれているのです。マタイはそれを伝えます。

病気(罪)であることを知って初めて知る健康(赦し)と医者(イエス様)のありがたさ。私たちは、神に背いている罪を真に自覚し、その病の深刻さを知れば知るほど、主の哀れみ深さがよく理解できるようになる、立ち上がり従う者なのです。アーメン。

「聖マタイの召命」(1599年-1600年)ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ

関連記事