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るうてる2024年

るうてる2024年09月号

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「何のために、手を洗う?」

日本福音ルーテルシオン教会・西宮教会牧師 水原一郎

「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。」マルコによる福音書7・1

 「夏休み 休めていません 父と母」。子どものころは疎ましかった9月1日が、今は甘美に響きます。高1を筆頭に、中1、小4、小2、年長のわが家の子どもたちは、全力で夏休みを過ごしました。早朝こそ、ラジオ体操組と朝寝組に分かれますが、朝食後は「心と精神と力を尽くし」、炎天下で部活や昆虫採集、部屋遊び。宿題への努力は「からし種」一粒。ひと夏で米一俵(60㎏)が無くなる台所。それが夏休みの日常でした。シオン教会では、四つの礼拝所があります。毎週、土曜昼からは山口県の柳井礼拝所、日曜は徳山と防府、火曜夜は島根県六日市の主日礼拝です。県を離れることはなかなか難しいですが、山口・島根県では夏休み期間中も特別に、河川プール、山と海、磯の利用を無料としています。夏空や星座も見放題、朝の新鮮な空気も吸い放題です。山口県、島根県、一度、いかがですか。

 さて、話は少し変わります。夏の期間も右記の出入りがありましたので、家では帰宅時には手洗いを義務としています。唐突に硬い表現を記しますが、衛生規定は集団生活を維持するために、欠かせません。「みんなを守るため、手洗いをする」のです。この日の聖書の背景である「衛生規定」も、初出は「荒野の40年」と言えます。この日の「食前の手洗い/食器・祭儀用の器の洗浄(3節)」は、原型は出エジプト30章17節からと見ています。祭儀を担当する人々のための規定です。しかし問題は何か。出エジプト記記載の規定を尊重しつつ、規定から派生した「昔の人の言い伝え(3節)」を、聖書と同等の拘束性を持つものと見なした、ということです。

 今日の聖書の結びで主イエスは、「無にされた神の言葉(13節)」と話されています。主イエスがこの時言われた「神の言葉」は、エルサレムから来た律法学者たちの実情(3~4節)と指摘点(5節)から考えれば、「出エジプトの事柄」である神の導きの「出来事、事柄」でしょう。それが無にされたと主は言われます。出エジプトの出来事の骨子は、神からの守りを信じ、相互に配慮することです。言い方を替えれば、神の前に心を開き、他者を隣人として生きることです。しかし彼ら律法学者は、根本を見失い、「言い伝え」を典拠として自動的に「洗わない手は宗教的な汚れ」と見なすのです。具体的に律法学者は、エルサレムから遠路、数人がかりで直線距離約100㎞のゲネサレト(6章53節)を訪れます。彼らはさらに、ゲネサレト地域内の主と弟子たちの居宅を探し、そこを訪れ、規定違反を見止め、告発するのです。律法学者のそのような姿勢、生き方、語る内容が、出エジプトを導いた神の愛を見失っていることを主は語ります。

 そもそも主イエスはこの時、ガリラヤ湖西岸地域の町村を回り、み言葉を伝える働きをなさっていました。その働きの内実は、「みんなを守るため、あなたは生きる」ことの告知でした。表現の順番を替えれば、「あなたが生きていることは、みんなのためになる」「あなたのいのちは、隣人の喜びとなる」ということを主は伝えたのです。もちろん、主は対話や状況を踏まえて、さまざまな形でそのことを伝えたのです。今日の聖書には明確に登場しませんが、直後の聖書箇所に登場する「異邦人」と呼称された方々、直前、直後の「病という状況にある方」にとっては、主イエスの言葉は、何よりも助けになったことと察します。

 このみ言葉から私たちが覚えたいことは三つ。一つ目は、諸所を巡られた主イエスは、今日もまた、あなたを訪れて下さるということ。二つ目は、困難な「荒野の40年」の旅路を導いた神のみ手が、今日もまた、あなたと共にあるということ。三つ目は、既にあなたは、誰かの隣人なのです。残暑の折、そのことを覚えたいと思います。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

(54)「与えられているから」

「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」ヨハネによる福音書3・36

 私はなんでここにいるのだろう?ふと誰かに聞きたくなるときがありませんか?私にはあります。自分が生まれてくる時代や親や家族や兄弟の順番も性別も選べません。そういえば昔なにかのSF小説に特殊な能力と記憶を持つ子として語られているのを読みました。そのようなことではなく私たちは生まれる国も環境も選べません。たとえ自分が選んで働いていると思っていても病気になったり災害に遭ったりいろいろです。私もこのような高温でしかも世界中で病気がはやる現代に生きているとは思いませんでした。
 何が原因でどうすればいいのか、いろいろな方法はあるでしょう。試されているの?いいえ決してそうではありません。そうではなく今を生きているお一人お一人が信頼されて今を与えられているのです。たとえあなたがどこにどのように生まれたとしても、それはあなたという存在だからこそ今与えられているのです。
 自分に何ができるのか、自分には何もできない。できるからあなたがここにいるわけではありません。あなただからここが、今が、与えられているのです。あなたを試すために今があるのではなくあなたが生かされて今があるのです。
 オリンピックで目標を達成できなくて大泣きをしていた選手を見ました。目標のために自分があるのではなく、自分のためにこれからの目標を持って進んで欲しいと思いました。私たち一人一人も今を試されて生きているのではなく、私たち一人一人だから今を与えられて生かされているのです。

「全国の教会・施設から」⑮

甘木聖和幼稚園 熊本敦子(甘木聖和幼稚園園長)

 1948年に甘木教会に着任された藤田武春牧師がロイド・ネイヴィー宣教師とともに保育園・幼稚園の教育事業を始められ、1952年にネイヴィー宣教師の妻マリエルさんの大きな働きによって小郡市松崎の集会所に松崎保育園を開設。翌年に教会敷地内に甘木聖和幼稚園を開設され初代園長になったと創立90周年誌に記録されています。地域の多くのキリストを信じる方々のあつい思いと祈りが幼稚園開設にあたってはささげられ、認可申請を受けるための行動力が結集されたと伝え聞いています。神様がその方々の祈りを聴いて下さり、今日まで幼稚園を続けさせて下さっていることは本当に驚くべき神様の御業だと思います。
 聖和幼稚園の自慢はまず、広い園庭と老木の藤棚の下の砂場と急勾配のすべり台です。次に園庭をぐるりと取り囲む大木とモミジ、ザクロ(花はウインナーのようでおままごとの好材料)、色水遊びが出来る大量のオシロイバナなどなど。また、ダンゴムシやカナヘビ探し、セミの抜け殻集めがたくさん出来るのも子どもたちにとっては自慢かな⁉
 子どもたちはとにかくよく戸外で遊びます。「せいわっ子」と言えば「どろんこ遊び」と言うくらい5月ごろから砂場に穴を掘り、せっせと水を運びためて「温泉だぁ」と言いながら足をつけたり、座り込んだり…身も心も解放させています。
 保護者や職員が持ってきてくれるお菓子やティッシュの空き箱も子どもにとっては宝の山。「これで何を作ろうかなぁ」と想像力を膨らませてお友だちや先生といろいろな作品を作ります。
 そして最大の自慢は大勢の卒園生と今までお勤め下さった先生方、そして子どもたちに神様がどんなにみんなのことが大好きでいつも一緒に居て下さるお方かということをお話し下さった牧師先生方です。ある年の卒園式で言われた「先生方、本当にお疲れさまでしたね。後は神様にお任せしましょう」と言われた牧師先生のお言葉には肩の荷がホッと下りたのを覚えています。

日善幼稚園 西川晶子(日善幼稚園チャプレン・日本福音ルーテル久留米教会・田主丸教会・大牟田教会・阿久根教会牧師)

 日善幼稚園は、1913年(大正2年)、現在の所在地に近い久留米市小頭町のルーテル教会講義所内での「幼稚会」からその働きが始まり、1915年、現在地で正式に幼稚園として開園されてから、来年創立110周年を迎えます。
 1942年には戦争の影響で一時休園しますが、戦後、信徒の願いにより、1951年(昭和26年)に再開。その際の園舎は、組み立て式家屋を購入し、教会の青年たちの奉仕の手も借りて建てられたとのことです。
 その後、社会の急激な変化の波が押し寄せる中、教会立の幼稚園であることの意味が問われた時期も幾度となくあったようです。その都度「子どもの時にキリストとその愛に触れることは、人生における最高の宝である」と、キリスト教精神に基づいた幼児教育の意味が再確認され、現在に至るまで宗教法人立、「教会の幼稚園」としての歩みを続けています。
 献堂106年を迎える教会堂が幼稚園のシンボルでもあり、教会を訪れる昔の卒園生の方も「あの頃のままだ」と喜んでくださいます。今も二世代・三世代と在籍してくださっているご家庭もあり、つながりに支えられてきた幼稚園であることも感じます。
 少子化が進行する中、45名定員に対し、現在の在籍数は30名程度と、状況は楽ではありません。しかし手厚い保育を求めて来られる子どもたち、また外国籍の子どもたちなども多く受け入れ、地域の中で大切な働きを担っています。子どもたちの主体性をはぐくむ『遊び』中心の保育方針の中、今年四月に就任された竹田孝一園長を始め、先生たちはああでもないこうでもないと試行錯誤しつつ、子どもたち一人一人と向き合っています。子どもたちは、神様と周囲の愛に守られて、日々泣いたり笑ったり、自分の思いを十分に表現しながら生き生きと園生活を送っています。これからも神様のお支えを祈りつつ、委ねられた子どもたちを大切に、歩んでいきたいと願っています。

東京教会 神の愛の掟と共に歩む 浅川剛毅

 イエスキリストが私達人類に贈られた御言葉、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネによる福音書15・12)愛の本質については使徒パウロによって伝えられた「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(コリントの信徒への手紙一13・4~7)
 東京教会は設立当初からこの御言葉を大切に生きるべく、牧師、信徒が神の家族として家族的な交わりを歩んで来た教会である。と信仰の先輩から聞かされていました。私が友人に誘われて初めて東京教会を訪れたのは約六十六年前、牧師や信徒の方々から温かく迎え入れられた事を忘れる事はできません。当時のクリスマスイブには夕礼拝後、聖歌隊を中心に誰もが自由に参加してクリスマスキャロリングを近隣信徒宅玄関口で行い、十数軒を訪れて、最後は決まった信徒の家で歌い終わると、玄関が開いてご主人が「寒かったでしょう、サア家にお入りなさい。」と言って皆を誘い入れ、温かい食事を振る舞って頂き、大変感激したものでした。夏には1泊2日の夏季修養会を箱根の宿等で開催し、特に証し会等で信徒の交わりが一層深まった事は感動を伴い、感謝でした。教会暦に沿ってイースター、ペンテコステ、宗教改革記念日等に祝会の食事会を開き、信徒の交わりを深めて参りましたが、四年前からのCOVID︱19のパンデミックにより、こうした信徒の交わりの機会は自粛閉鎖となり、いまだに多くの会合復帰の足取りは鈍い状態です。今こそ私たちは神から贈られた「神の愛の掟」を声高く世に伝えていかなければならない時ではないだろうかと深い祈りをささげている今日この頃です。

祝500年。 さあ、賛美しよう!

小澤周平(日本福音ルーテル教会典礼委員・日本福音ルーテル千葉教会・津田沼教会牧師)

「主に向かって喜び歌おう。」(詩編95編1節)
 突然ですが、問題です。今年は何を祝う500年でしょうか? 正解は「ルターと会衆賛美歌の500年」。なんと今年は、宗教改革者マルチン・ルターが最初に歌集を出版した年からちょうど500年目です。そこで今回、この秋に開催予定の二つのイベントをご案内します。
 10月26日(土)9時30分から、「日本賛美歌学会第24回大会」が日本福音ルーテル東京教会を会場に行われます。テーマは、「どうする賛美歌集?~ルターの会衆賛美歌から500年」です。教派や団体を超えた参加者と共に祈り、学び、そして歌います。今年は、日本福音ルーテル教会が協賛となって大会に協力します。
 午前のメインプログラムは基調講演。伊藤節彦牧師(日本福音ルーテル栄光教会)をお招きし、歴史を学びます。そして、「ルターの賛美歌を歌う」のコーナーでは、松本義宣牧師(日本福音ルーテル東京教会、学会員)のリードによって、皆で『教会讃美歌 増補 分冊Ⅰ』収録の賛美歌を歌います。
 午後は、「新しい歌を歌う」コーナー、「パネル・ディスカッション~各教派の歌集の現状とこれから」、そして「研究発表」と続きます。最新の情報を分かち合いながら、これからの礼拝や賛美歌に思いを寄せます。参加費(一般)3千円。問い合わせは小澤周平(日本福音ルーテル千葉教会)まで。。
 また、9月28日(土)13時30分からは、「礼拝と音楽セミナー」(東教区教育部主催)が東京教会にて開催されます。テーマは「私たちは歌う教会である ︱ルターの賛美歌集発行500年を記念して︱」。集い、学び、歌う喜びを、共に分かち合いましょう。参加費は無料。問い合わせは河田優牧師(日本福音ルーテル日吉教会)まで。
 私たちは歌う教会の群れ。賛美を通して、聖書の言葉を味わい、信仰を養い、世界に光を輝かせる神の民の群れとされています。ぜひ、いっしょに学んで歌いましょう!

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

イスラム家庭のルーテル信徒

 アメリカ福音ルーテル教会(ELCA)のカディア・イスラムさんは、母親がルーテル教会の信徒、父親がイスラム教徒という環境で育ちました。20代前半にELCAの青年プログラムに参加、牧師家庭にホームステイしながらルワンダで1年間ボランティア活動をしました。こうした境遇と経験が、彼女のその後の人生に大きな意味をもつことになり、宗教についての視野が広がりました。帰国後、特別支援が必要なこどものケアラーとして2年間働き、今後は新たにELCAの難民と亡命希望者の支援活動をする予定です。

■ご家族の宗教について教えてください。

 「母はノルウェー系のルーテル教会員です。父は18歳のときバングラデシュからやって来た移民です。私はイスラム教徒として育ちましたが、母と私が教会へ行くことを父は「どちらもアブラハムの信仰だから」と、快く受け入れてくれました。教会から帰ると、私が教会学校で教わった同じ話を、今度は父がムスリムの立場から話してくれました。

■お父様は熱心なイスラム教徒ですか?

 「とても熱心です。ただ移民ということもあって、地域に溶け込むのに苦労しました。家ではイスラムのしきたりに従って、家族は豚肉を食べませんでした。またイスラム教の祭事やラマダンの断食を守りました。そうした環境で育ったことが私の宗教観を広めたといえます。」

■家庭環境は自身のルター派としての信仰に影響しましたか。

 「他宗教に対する謙遜と尊敬の念を学んだ気がします。私の行動はキリストの犠牲という私の信仰に基づいていて、それへの応答として私は神様に招かれていると思っていますが、他宗教の方たちも方法が異なっているだけで、同じように招かれているのだと思えるようになりました。他宗教が混在するという現実には豊かさと美しさがあります。私たちが多宗教に対していかに敬意をもてるかが大切です。」

■今後ELCAが関わるGlobal Refugeで難民支援をするわけですが、現在の政治状況を考えると大きなチャレンジになりそうですね。

 「まさにそうです。グローバルノース(北半球諸国)の人たちは、追いやられた人々をどう支援していくかがよく分かっていなくて、そのことに対する責任感が足りないように思います。アメリカの移民政策は複雑です。厳しい状況にある人たちは、亡命申請するにあたってまずそのことを認識しなければなりません。Global Refugeは、彼らに対してより公正な対応ができるよう努めています。」

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改・宣教室から

小泉基宣教室長(日本福音ルーテル札幌教会牧師)
神﨑昇さん(日本福音ルーテル名古屋めぐみ教会信徒)

小泉 教会学校が難しい時代だといわれますが、名古屋めぐみ教会には子どもたちが集まっていると伺いました。教会学校には、どんな子どもたちがどのくらい集まられるのですか?またなぜ子どもたちが集まってくるとお考えですか?
神﨑 教会から生まれた箱舟保育園の園児や卒園生と教会員の子どもたちが中心ですが、近所の子どもも少し来てくれます。ふだんは幼小学科のこども10人くらいと教師や大人含めて25人程でCS礼拝、中高生科は5人ほど主日礼拝に出席していますが、イベントの時には倍以上の子どもたちが集まります。子どもたちは保育園で小さいときからお友だちなので、そのつながりが大切にされているということと、ふだんから出入りする会堂が子どもたちにとって違和感なく自然な環境になっていることも大きいと思います。

小泉 教会学校として大切にしていること、工夫していることを教えてください。
神﨑 わたしたちの教会にはミッションステートメントがあります。そこで掲げられた保育園との連携の実現のために力を入れています。小学科から中高科につなげるために中高生の居場所作りを工夫したり、ティーンズキャンプやこどもキャンプへの送り出しの支援などにも教会をあげて取り組んでいます。さまざまなイベントの礼拝を丁寧に行うこともそうですが、教会員がCS礼拝説教に関わってくださることも特徴です。

小泉 神﨑さんは、教会学校の校長先生としてご奉仕くださっていると伺いました。かかわるようになったきっかけ、またご奉仕の中での思いを教えてください。
神﨑 めぐみ教会では歴代、役員の教育担当がCS校長も兼任し、教会をあげて運営する仕組みになっています。私も過去に経験はありましたが、2年前に思いがけず前任者の校長が召天されてその後を継ぐことになったのです。過去の教会での若い人との集合写真をみて、この人たちは今どこにいるのか?と後ろ向きの思いにかられるときもありますが、小学生の頃からCS遠足に一緒に行った子が成人してCS教師を担ってくれている姿を見ると、熱いものを感じます。
小泉 ありがとうございました。最後に、神﨑さんが大切にしておられる聖句を教えて下さい。
神﨑 フィリピの信徒への手紙3章14節「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」です。若いころに出会いましたが、いま体が動く時間の限りが見えてきた時、新たな意味を与えられます。

神学校の『これから』のために

立山忠浩(日本ルーテル神学校校長・日本福音ルーテル都南教会牧師)

 ルーテル学院大学と大学院が2025年度以降の学生募集を停止することになりました。在校生が全員卒業した後は神学校だけが継続されることになります。ただ、これまでと変わらずに維持されるということではありません。
 欧米の神学校もそうですが、日本にある他の神学校や神学部においても神学教育をいかにして維持するのか懸案となっています。これまで重要な役割を担って来た寮にしても、運営に苦慮している学校がほとんどのようです。学生数の減少もさることながら、教師数の不足が深刻なのです。丁寧な教育の重要性がどの分野でも叫ばれていますが、それを実現するためには適切な人材と奉仕者の確保が欠かせません。私たちの神学校の実情はことさら厳しいと言わざるを得ないのです。
 これからも神学校は維持されるとしても、神学校そのものを改革してゆかなければなりません。私たちが神学生であった40年前から随分と変わりました。学生と教師の数が大きく減少し、ルター寮も閉鎖され、教会も神学界も学生の意識も驚くほど変化しました。そもそもカリキュラムも時代の変化に対応して改革しなければならなかったのですが、遅れた観が否めません。カリキュラムを含め、新たな局面に対処する案を作成するために、神学校将来検討委員会(ルーテル学院理事会の下にあります)と神学校教授会を中心にして協議を重ねています。
大学と大学院を近い将来閉じるのであれば、現在の三鷹のキャンパスをどのように有効活用するのかも大きな問題です。神学校も無関心ではいられませんが、その判断は理事会・評議員会マターです。そこに委ね、主のお導きを祈り信頼するしかありません。神学校が教会から託されている使命は牧師候補生の養成だけではないと認識しています。ルター研究所やDPCなどでの研究を印刷物やセミナーを通して発信することや牧師の現任教育への貢献も挙げられます。大風呂敷は広げません。しかしルーテル教会の核心的なことに貢献する気概は持ち続けたいと思います。

…主イエスのまなざしと出会う…第26回女性会連盟総・大会報告

八木久美(日本福音ルーテル教会女性会連盟第25期会長・日本福音ルーテルむさしの教会信徒)

 梅雨入り前の6月7日~8日、第26回女性会連盟総・大会が東京教会で行われ、6年振りの対面集会へと再会と出会いの喜び・期待を携えて全国から約220名の会員/牧師教職/神学生が、宣教百年記念東京会堂に集結しました。これより時系列に沿ってご案内します。

【開会礼拝】
 内藤文子牧師の司式、永吉秀人牧師の説教『隣人とは誰か』。…その意味を皆自らに問い、心を静めながら、この3年間に召天された138名の方々を覚えて祈りをささげ、総会議長と東教区を軸にした牧師8名を通して天と地上での聖餐の祝福にあずかることがかないました。

【基調講演】
 平良愛香牧師(日本キリスト教団川和教会)の講演『LGBTが安心していられる場所は、全ての人が安心していられる場所』と自作賛美歌「主につくられたわたし」が披露され、「人間は2種類ではなくもっと豊かな存在。社会や教会の中で“らしさ„を押しつけられている一人一人が︱わたしはわたし。神様が私をこのように造られたのだから︱」と歌う姿にエールを受けました。

【総会審議事項Ⅰ】
 25期連盟、教区、協力委員の活動報告、会計決算報告が承認を得て、続く石居基夫ルーテル学院大学学長より「これからの学校法人ルーテル学院について」、立山忠浩日本ルーテル神学校校長による「ルーテル神学校」のご報告に参加者一同静かに耳を傾けていました。

【愛餐会】
 大柴譲治ルーテル学院大学理事長のご挨拶、教区ごと参加者/今春誕生の新牧師4名/神学生2名/連盟の感謝献金支援先8団体/JELA/ルーサーリーグのご挨拶・案内はビデオレターを交えて展開。円卓ではクジ引きの妙もあり、出会いと再会の組み合わせ×会話×おいしい食事のマッチングが和やかな愛餐のひと時を醸成し一日を締めくくりました。

【朝禱〜審議Ⅱ/Ⅲ】
 30年に及ぶサバ神学院神学生支援終了、ルーテル神学校神学生支援開始。
 今後の女性会連盟のあり方検討委員会(仮称)設置、予算大綱、26期主題「虹の架け橋を見上げて」副主題「平和・寛容・多様性へ」主題聖句:創世記9章13節・16節…互いに主の契約のしるし/虹を見上げ、平和と寛容と多様性へと歩み出す…これらのビジョン全てが感謝を持ち承認されました。

【閉会礼拝・役員就任式】 平岡仁子牧師の司式、松本義宣牧師の説教…「連盟や教会を遠く感じるとするなら、自らの思いや心が遠く離れているからではないか」…この問いを胸に社会や個人の状況変化・価値観の多様性に対し、受容と寛容への祈りが込められた役員就任式。「主イエスのまなざしとの邂逅」を喜び、怒り、泣き、笑い、駆け抜けた2日間の幸いを覚えて、それぞれが再び置かれた所へ戻る後ろ姿へ、現在と未来を感知する英知をと、切に主に願いつつ多くの労を担われた全ての方々へ衷心より感謝申し上げます。

ひとの思いを超えた異なる道 第29回東教区宣教フォーラム報告

八木久美(宣教フォーラム実行委員長・日本福音ルーテルむさしの教会信徒)

 7月6日、東京教会を会場に第29回東教区宣教フォーラム“五感に響く豊かな礼拝” シリーズ第2回『ラビリンス・ウォーク 瞑想/黙想の彼方から』が開催されました。
 今回のテーマは、歩く瞑想・祈りと言われるラビリンス・ウォーク…シャルトル大聖堂はじめ世界各地で礼拝堂、修道院ほか諸施設、屋外庭園など数千箇所に設けられていると言われる歩く瞑想・黙想の図形を体験して何を五感で感じるのか。
 実行委員とジェームス・サック牧師(ルーテル学院大学)が2階礼拝堂聖壇前に用意した「シャルトル・エッセンス」は、中世にシャルトル大聖堂の床に敷設されたシャルトルラビリンスのレプリカ縮小版ですが、直径7mもの図形と扇形に配置した長椅子と共に異次元の空間へと礼拝堂を一変させました。
 開会礼拝は「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」(箴言3章5節〜6節)という聖句に寄せてサック牧師が「自らの人生を省みると中心(ゴール)を目指して歩くラビリンスの道程と重なりを覚えます。紆余(うよ)曲折の中で共におられる神に信頼を置いて歩くとき、私たちの理解を超えて神は道を整えられる。神は全てをよくご存じです。」と語った後、光射す礼拝堂には教区聖歌隊と会衆の賛美が響き渡りました。
 続くラビリンス ウォーク・ジャパン代表の武田光世氏の講演では「ラビリンス」は迷路ではなく円の中(世界)の曲がりくねった一本道(人生)を道なりに歩くとおのずと中心に至り、中心からまた道をたどって外へ戻ると入り口が出口となる。「ラビリンス・ウォーク」はその道を歩いて黙想する活動で3つのRの過程をたどるもの。①中心に向かいながら解き放つ(Release)②中心で歩みを止めて受け取る(Receive)③外に戻って来る(Return)。正しい体験・間違った体験は無く、思惑やはからいを手放してただ歩く。体験を体験する。
 象徴的な人生の旅・巡礼・信仰・和解・平和への旅とも言われるものの概要・歴史・現況の説明を受けた後、いよいよ参加者は呼吸するかの様に奏でられるパストラル・ハープ(大石千絵氏/三鷹教会信徒、村岡晶子氏/カトリック府中教会信徒)に包まれて、実際にラビリンス・ウォークを五感を通して体験しました。それぞれが思う来し方、行く末はどのようなものだったでしょう。こうして長くも短くも感じられた一日は安息と共に幕を閉じました。

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