「見ないのに信じる人は、幸いである」
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20・29)
「青いお空の底ふかく、海の小石のそのように、夜がくるまで沈んでる、昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」(『童謡詩人 金子みすゞ いのちとこころの宇宙』JULA出版局)
この詩は、私の初任地の一つである二日市教会で、最初の説教を始める直前に起きた福岡県西方沖地震の日に、説教の中でお話した童謡詩人、金子みすゞの「星とたんぽぽ」という詩の一節です。
彼女は、自分の愛娘ふさえを夫の手から守るため「ふさえを心豊かに育てたい。だから、母ミチにあずけてほしい」との遺書を残して、自らの命を絶ちました。そして、その命を絶つ前日に自分の写真を写真館で撮りました。その写真には、明日、自ら命を絶つという悲壮感や絶望感は見られません。そこには、娘ふさえが、自分が記した遺書のように「心豊かに育ってほしい」という願いと希望が溢れています。
また、1988年10月9日、55歳の若さでがんにより天に召された国際派ニュースキャスターの山川千秋さんが、ご自分の愛妻穆子(きょうこ)さんに残された遺書の最後で「すべてを主にゆだね、二人の息子を信じてたくましく生きてください。あなたなら、それをやってくれる。なにより、三人には、主の愛の衣があるではないか。感謝と、はげましと、愛をこめて」(『死は終りではない: 山川千秋・ガンとの闘い180日』文藝春秋)とつづられた中には、自分の死を目前に見つめながらも、その死への不安と恐怖はみられません。そこには、ただ、主への信頼と感謝、また、妻への信頼と感謝のみです。
この二人に対し、このみ言葉に登場する「ディディモと呼ばれるトマス」のその姿は、全く対照的です。トマスは、「ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言う」言葉を聞くと、即座に「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言うのです。
しかし、トマスも実際に、イエスさまが自分たちの「真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われ」、「それから、トマスに」、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われると、即座に「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白します。
「聖トマスの不信」という題のカラヴァッジオの絵画の中での彼は、実際にイエスさまの釘跡に指を入れてその傷を確かめていますが、このみ言葉の中のトマスは違います。彼も、本当はイエスさまを他の誰よりも強く求め、会いたいと心の底から思っていたのでしょう。
イエスさまは、そのトマスの信仰告白に対し「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われます。
このトマスの姿に出会う時、私たちは自分自身の姿をそこに見ることはないでしょうか。自分の目で、耳で、手で、イエスさまを確かめることができない時、自身の信仰に自分の感覚を通して実感が持てない時、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ」とトマスのように言ってはいないでしょうか。また、心の中で密かに思っていることはないでしょうか。そんな時、イエスさまが、このトマスのように私たち一人一人の前に現れて「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われるのです。
「幸い」、それは、「神からの力を得る」ことです。それは、すべての不安や恐怖から解放された至福の状態に至ることです。そして、それこそが信仰を、救いを得ることなのです。
イエスさまは、全ての人にその信仰を、救いを得てほしいと、復活された今、私たち一人一人に直接、語りかけてくださっているのです。
冒頭の詩は次のように結ばれます。
「散ってすがれたたんぽぽの、瓦のすきに、だァまって、春のくるまでかくれてる、つよいその根は眼にみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」(『童謡詩人 金子みすゞ いのちとこころの宇宙』JULA出版局)
「聖トマスの不信」 カラヴァッジョ作・1601年頃・油絵・サンスーシ絵画館