どこにいるのか
また、 イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」 (マルコによる福音書4・26〜28)
私は幼い頃、父親と教会に通っていました。その後、私たちは教会を離れ、キリスト教とのつながりは途切れます。地質学が好きな父は、私を山登りにも連れていってくれたのですが、趣味を無理強いすることはありませんでした。最近になって私も「地」や「土」に関心を持つようになりました。
「土」といえば、土と人の間には密接な関わりがあると創世記に書かれています。土から人は造られ、神が地に命じると草木が生えました。神のようになろうとして善悪の知識の木の実を人は食べますが、自分が裸であることを知り、いちじくの葉で腰を覆います。隠れるアダムに神は「どこにいるのか」と呼びかけるものの、アダムもエバも責任転嫁をしてしまいます。人が罪を犯すと土が呪われ、作物が実らなくなります。その後、土地(居場所)を求めてイスラエルの民はさまよい、そこに神が同伴されます(創世記から申命記)。
私自身の話 になりますが、20歳の頃、「理想の自分」と「実際の自分」の差に耐えられなくなったことがあります。「大切なもの(私にとっては家族)を守るためには強くならなければならない」と自らを駆り立てたものの、思うように強くはなれないことへの幻滅と、大切なものを守れない罪悪感がありました。誰かに相談したり、自分をありのままに受け入れたりすることができれば楽だったのですが、取り繕うことを続け、閉塞感に押しつぶされそうになりました。そんなとき、三浦綾子さんの『塩狩峠』を読み、引用されていた「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死ねば、多くの果を結ぶべし」(ヨハネ伝12・24)に心が揺さぶられました。
「一粒の麦」は本来キリストを指しますが、「私自身」のことだと解釈し、キリストを信じる者には死を越えた先にも希望があると感じました。また、キリスト教について知るうちに「立派だから救われるのではなく、ありのままの私が神にゆるされ、受け入れられている」と感じました。そして、キリストに賭けてみようと思いました。教会に行かなければキリスト教は分からないと三浦綾子さんがおっしゃっていたので、以前とは別の教会に行ってみました。そこで居場所ができ 、洗礼を受け、満たされた気持ちになりました。
ところが「キリスト教に求めるものが居場所だけでいいのか」という不安が湧いてきました。居場所さえあれば危険な宗教団体でも良かったのではないか、たまたま先にキリスト教と出会ったから良かったものの、順序が逆ならその宗教団体に入っていたのでは、と思ったのです。「キリスト教の信仰内容より、居場所の有無を私は重視しているのでは」という疑問です。
そのとき、冒頭の聖句に出会いました。土に種を蒔くのは人ですが、成長させてくださるのは神です。人の努力は、成長の促進も妨害もできない。土が人の手を離れて「ひとりでに」実を結ばせるからです。この成長が、神の国にたとえられています。神の国は「神が支配しておられるところ」であり「キリストのゆるしと愛が支配するところ」なのです。ゆるしと愛は、私の努力によって獲得するのではなく、神が恵みとして与えてくださる。「どこにいるのか」と問われれば「私は、キリストのゆるしと愛が支配しているところにいる」と答えることができます。
キリストがゆるしてくださっていても、私たちの確信はたびたび揺らぎます。私たちは、良くも悪くもアダムと似ており、神のようになって物事をコントロールしようとし、ゆるしと愛から離れようとしてしまいます。しかしその私たちを、父なる神は「どこにいるのか」と探し求め続けてくださいます。愛のゆえに、御子イエス・キリストを十字架につけて死なせ、私たちの内にイエスが生きるようになりました。御子イエスが父なる神に愛されているように、私たちはゆるしと愛を受け継ぐ神の子なのです。私たちのこの希望は、イエス・キリストです。
日本福音ルーテル小鹿教会、清水教会 牧師 秋久 潤