赦され生かされて、生きる
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」・・・「このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハネによる福音書21章17、19節)
死者の復活、あってほしいと切に願いつつも、ありえないのがこの世の現実。だから、死を受け入れたくなくても、そうするほかない。すべての終わりとしての死、やり残したことがあっても、やり直したいと願っても人生に終止符が打たれる。赤字決算でも変えられない。これが誰もが経験する人間の宿命。
しかし、ゴルゴダの丘の上で苦しみと屈辱の果てに絶命し、墓に葬られたその方を、神は「復活させられた」「高く引き上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」と聖書は宣言します。代々の教会は「三日目に死人のうちから復活し」と告白します。誰もが最初は信じられなかった出来事を神は起こされたのです。
この奇想天外な告知が福音である所以は、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられ」たから。キリストだけでなく「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになる」からです。つまり、わたしもそうですが、復活させていただくのに値しない罪人である者も含めすべての人が、キリストの復活のゆえに、復活と新しいいのちに与らせていただくようになるというのです。死の束縛から解き放ち、これこそ福音です。
四つの福音書は、復活は「終わりの時」に完成するけれど、すでに今このときに始まることを語っています。その証人の一人がペトロ。熱血漢で、純朴で、命懸けで主イエスに従っていたのに、あまりにもろく、弱く、無様にも三度否認して裏切り、刑場からも逃げ出すという取り返しのつかない過ちを犯したペトロ。あの三日目の夕方とその一週間後に他の弟子たちと共に復活の主にお会いしたのに、それだけでは驚きはしても、いのちは萎えたまま、生きる力は枯渇したままでした。生ける屍です。
ヨハネ21章が描いているのは、元の漁師に戻りかけたペトロたちに復活の主がみたび姿を現してくださり、決定的な会話を彼となさった場面です。「ヨハネの子シモン」と親しく呼び掛け、「わたしを愛しているか」と尋ねられます。そうです、その通りです、もちろんご存じでしょう、わたしはあなたを愛しています――ペトロはそう答えます。愛の告白あるいは信仰の告白を三度します。
二人の会話に大変興味深い言葉が用いられています。新共同訳では主イエスの問いは三度とも「愛しているか」であり、ペトロの答えも「愛している」です。
最新のルター訳ドイツ語聖書でも六つともリーベン(愛する)という訳語が採られています。しかし、ギリシャ語原典ではイエスさまの最初の二回は「アガパオー」という動詞、最後の問いは「フィレオー」で、ペトロの答は三回とも「フィレオー」でした。どちらも「愛する」と訳すことができますが、ここで神の無償の愛アガペーと通じる動詞アガパオーと、友愛フィリアにつながるフィレオーは意図的に区別して使われたのでしょうか。通説は単なる言い換えと見ますが、岩波訳はフィレオーを「ほれこんでいる」と思い切って訳しています。そうならば、この会話でイエスさまは、主が期待されたアガパオーとは違うペトロの愛フィレオーが持つ人間的限界を赦し、受容してくださったのだと、わたしには思えるのです。
主イエス・キリストはわたしたちの人間的な弱さも罪も十字架と復活で赦し、未だ不十分さを抱えたままの生を受け容れて、新たに生かしてくださいます。「わたしに従いなさい」と招かれます。ここに赦され生かされながら、終末での復活の完成を望みつつ今を生きる新しい信仰者の生き方が可能になります。ペトロは弱さを背負いつつ使徒としての生涯を全うしました。
わたし自身の69年間の人生、42年間の牧師とされての歳月は、弱さと罪にもかかわらず、赦され生かされて生き、及ばずながら神と教会と人々にご奉仕させていただく恵みに浴した幸いの時でした。十字架と復活は神の愛です。主の力です。ただただ感謝。アーメン
日本福音ルーテル教会 牧師 江藤直純