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バイブルエッセイ

笛を吹いたのに

「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。/『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。/葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』/ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
(マタイによる福音書11・16~19)

洗礼者ヨハネの弟子たちがイエス様のところに来て帰った後のことでした。イエス様は群衆を相手にして語られています。「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』」今を生きているわたしたちからしてみたら古代のユダヤ社会に生きていた人たちは、神様に対してとても敬虔であり信仰深さを持って生きていたように思えます。しかし、そのような中にあって洗礼者ヨハネやイエス様に対して、態度を頑なに留保し、温かくもなく、かといって、冷たくもない、そのような態度で接するものが多かったようです。ここに、私たちは、今の日本における教会のある種の現代的な課題を共に感じることができます。
浜松教会・浜名教会に着任以来、浜松教会ではパソコン教室を開催しています。生徒は教会員であることが多いのですが、ある時は大学生に、また、ある時は地域の方に教えたこともあります。ずっと続けながら、参加者の方々が礼拝や洗礼に導かれるということがどれだけ難しいか、改めて気付かされました。
ところが、私がパソコン教室という働きを通しての伝道を諦めかけていたある時のことでした。しばらく休まれておられた生徒の方からお電話を頂きました。大病にかかって、牧師である私と話をしたいので訪問して欲しいとのことでした。訪問すると、闘病生活で不安そうな面持ちをされておられました。そして、その方はその場で洗礼を志願されました。私は、それまでのその方とのパソコン教室での出来事を振り返りつつ、こちらの方から「この方はキリストとの関係を求めていないだろう」という予断を持って、接していたのではないかと気付かされました。また私自身の信仰の足りないことを心から恥じました。
その方から話を伺いながら、わたしたちの世界に与えられているものの中で、病と死の恐怖に打ち勝つことができるのはイエス様の復活の福音だけであるということを改めて感じさせられました。 また、生涯の終わりの時に本当に自分を救いうるのは何かを改めて教えて頂きました。洗礼の準備、そして、洗礼式を通して、人間という存在はどれほど弱い存在であるかということ、また、そこにキリストの慰めと愛と永遠の命への招きの声が響く時に、どれだけ深い慰めがやってくるのかに気付かされました。
このような出来事を踏まえつつ、み言葉に目を移しますと、「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」とイエス様が引用されましたが、み言葉の通りに心と体が踊っていなかったのは、私自身の方や、私たちの教会をも含むのではないか、という新たな視界も開けてくるのです。
そして、今思うことは、私たちの教会は、地域の声、社会の求めに応えることができているのかどうかということです。もちろん、人によって教会に対する求めは人それぞれでありましょう。しかし、その中にも、キリストの福音を求めておられる方がいらっしゃって、環境や機会さえ整ったら、信仰を求め始める方々もいらっしゃると思います。もちろん、大風呂敷を広げてばかりはいられませんが、教会は、これからも地道な種まきを続けなければならないと改めて決意をし、分かち合いたいと思いました。
福音書の時代のユダヤで、人々は断食をしているからとの理由で洗礼者ヨハネを見て拒み、飲み食いするからという理由でイエス様を見て拒みました。そのような当たり障りのない理由で拒絶する人々の中でイエス様は働かれ、滅びる他ない人々に復活の命、永遠の命を示し、多くの人をご自身のもとへと招きました。その福音とは、希望のないところに起こされる希望であり、滅びゆくものにとっての復活そのものです。喜びをもって福音の種蒔きをする教会でありたいと心から願います。

日本福音ルーテル浜松・浜名教会牧師 渡邉克博

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