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バイブルエッセイ

「幸いである」

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
(マタイによる福音書5・3)

 11月の第1主日は全聖徒主日として守られます。私の司牧する教会では召天者を覚える礼拝として、会堂の最前列に在りし日の写真を並べます。この日は、なかなかお会いすることのかなわない人も一堂に会します。天に召された者のこれまでを、そして死してなお主の恵みの内にあることを隣人と共に、感謝し、祈りを合わせる一日です。

 今年の全聖徒主日には、マタイによる福音書から山上の説教が日課として与えられました。5章から7章までがいわゆる、山上の説教と呼ばれる部分であり、多くの人々に愛されてきました。マタイ福音書は主イエスが山に登られたことを強調します。山の上から主イエスは語られたのだと、遠くまで聞こえるように、と。それは、幸いを求めた多くの人々に聞いてほしかったからではないでしょうか。道に迷った子羊の様に、弱り果てた人々を憐れんだからではないでしょうか。はた目には幸いとは程遠いところにいる、そう思われていた人々に向けて、主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」この言葉から始まる、八つの幸いについて教えるのです。八つの幸い、どれか一つを取ってみてもそれだけで説教ができるような恵みに溢れたみ言葉です。そのいずれにも共通する視点があります。それは、誰の目に幸いであるか、という視点です。私の目から見て幸いなのではないのです。主があなたを見て、あなたは幸いだ、そう語ってくださる、主の目にある幸いです。

 しかしながら、心の貧しい人は、どうして幸いなのでしょうか。心の貧しい人と聞くと、心の狭い人や、対人関係においてあらわになる人間の至らなさを想像するのです。そうなりたくないと、私たちは思うのではないでしょうか。しかし、この箇所において主イエスは『霊的に貧しい人』について幸いだと言われています。霊的に貧しい人とは、神様に対して自分の至らなさを自覚している人です。言い換えるならば、心を神様に向けてへりくだることのできる者、そのような者を「心の貧しい人」と呼ぶのです。『神様、私はこんなにも、欠け多き者です。その私をあなたの恵みによって、強めて下さい。』そのように神様と向き合う、霊的に心の貧しき一人一人に、神様は語り掛けるのです。「あなたがたは、幸いである」と。

 この「幸いである」という言葉に、「天の国はその人たちのものである」という約束が続きます。本来は、なぜなら、という接続詞が付加されますから、「心の貧しい人々は幸いである、なぜなら、天の国はその人たちのものなのだから。」となります。主を主と知って生きてゆくことの恵みを、私たちは先達の後ろ姿から教えられてきたのではないでしょうか。主の語る幸いはそれだけでなく、その先にある天の国をも約束してくださっています。主を主と知り、天の国への希望を胸に生きてゆく。まさに、幸いな者の歩みです。

 天の国の希望、それは、単なる希望、『そうなるといいね』、というニュアンスではありません。将来、必ずそうなると約束されているのです。『天の国はその人たちのものだ!』と、主イエスは山の上から、み言葉に耳を傾ける人々に約束してくださったのです。

 全聖徒主日を迎えるにあたって、それぞれに先に召され、天の国の住人となった先達の顔が浮かぶでしょう。この日、み言葉を通して私たちに語られた約束が、先に逝きし先達に与えられていないなどということはあり得ません。私たちと同じように、み言葉を通して神様は天の国を約束してくださっているのです。ですから私たちは、先達の歩まれた道のりを思い起こす中で、その生涯をみ言葉によって支えてくださった神様に感謝を合わせたいのです。

 先達がたどり着いた天の国に向けて、私たちはなお地上の歩みを続けてゆきます。この旅の目的地は天の国、地図は聖書です。同伴者は、大勢の仲間とイエス様。そういう歩みを、私たちはこれからも続けてゆきましょう。

カール・ブロッホ《山上の説教》(1877年)

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