「1517、そして今」

私の車のナンバープレートは「1517」です。記憶力が衰えても宗教改革の年だからと即答できるように選びました。人事異動で登録地が変わっても同じ番号にし、以前のプレートも手元に残しています。高校生のころ暗記した世界史の年号が、後にルーテル教会の牧師とされた私にとって、自分を赦し、救い、生かす福音を思い起こす特別な数字になりました。
しかし宗教改革記念日が近づくたびに、自問もします。五百年以上前の「あの時」「あの場所」を繰り返し語り・聞き、仲間内で自己満足するだけの時になってはいないだろうか、と。
そんな問いに対して語り掛ける神の言葉として心に留めたいのはエフェソ書2章です。この手紙は伝統的にパウロ書簡とされてきましたが、今日ではパウロの教えを受け継いだ次の世代の文書とする見方もあります。いずれにしても、そこにはパウロが語った福音が明確に響いています。
「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」。救いは努力して獲得するものではなく、神からいただく恵みです。宗教改革が大切にした福音もここにあります。
しかしエフェソ書はそこで終わりません。私たちは「善い業を行って歩む」ために造られた、と続きます。ここには大切な順序があります。善い行いをしたから救われるのではない。恵みによって救われた者が、感謝のうちに隣人へと向かい、善い業へ送り出されるのです。
この順序を取り違えれば、信仰さえ人間が達成すべき条件になってしまいます。逆に、「信仰のみ」という大切な教えを他者を測る物差しにするなら、人を裁く新たな律法主義と他者の排除に陥りかねません。宗教改革を受け継ぐとは、自分たちの正しさを誇ることではなく、私たち自身の信仰と生き方が、繰り返し福音によって問い直されることなのでしょう。
エフェソ書はさらに、ユダヤ人と異邦人という、宗教・文化・生活習慣の異なる人々の間にあった深い隔たりへと目を向けます。そしてキリストこそ、二つのものを一つにし、「敵意という隔ての壁」を取り壊された方だと語ります。福音は、私と神との関係だけにとどまりません。恵みに生かされた私たちを、隣人との間にある壁を越える歩みへと導くのです。
同じ歴史も、立つ場所によって違って見えます。1945年は、日本では敗戦と戦争の終わりを覚え、平和への決意を新たにする年ですが、インドネシアでは8月17日に独立を宣言した年です。1517年も、私たちには宗教改革の始まりですが、別の側から見れば教会分裂の痛みを伴う出来事です。その後、大航海時代の進展やカトリック教会の改革運動などを背景に、キリスト教はさらに世界へ広がり、聖書や信仰だけでなく文化や言葉にも大きな影響を残しました。一方、その歴史が植民地支配と結びついた陰も忘れることはできません。ブラジルや南米諸国の地名にキリスト教の歴史を見、関係ないように見えるインドネシアの言葉の中に日本へより少し前に到達した宣教師たちが残したポルトガル語由来の言葉をたくさん見つけるとき、「教会」の長い歴史の光と影を思います。
今、日本でも、さまざまな言語、文化、宗教的背景を持つ人々が共に暮らしています。人口が減少し、介護をはじめ多くの現場で外国にルーツを持つ人々と支え合う社会になりました。教会もまた、変わらない福音に立ちながら、変わり続ける社会の中で、従来の宣教に取り組みながらも、組織や働きにおいて自らを問い直し、取り組む必要があるのです。
1517年を大切にするからこそ、1517年にとどまらない。「あの日・あの場所」ではなく「今・ここ」に生きる自らを吟味し、隣人の声に耳を傾け、隔ての壁を越えていく。神に愛されている者として、神を愛し、人を愛するその歩みへ、共に招かれているのです。
