息
わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」 (民数記11・29)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
「突然、天の中から外へ音が来た。猛烈な息のようであった。そして、彼らが座っている家を満たした。」(使徒言行録2・2より私訳)と記されています。「天の中から外へ音が来た」とあるように、聖霊は「音」であり、それが「猛烈な息」だったと表現されています。詩編には「あなたの顔をあなたが隠せば、彼らは恐れる。あなたが彼らの息を取り除けば、彼らは枯れ、塵に返る」(詩編104・29より私訳)と記されています。
またエゼキエル書37章の預言にも、谷のおびただしい枯れた骨が、預言すると集まり肉と皮が付いたが、彼らの中には霊は無かったとあります。そして、更に霊に預言すると、それらの中に入り、生き返ったとあります。
人間の創造においても、塵から象った人間に鼻から息を吹き込むと生きる者となったと記されています。このようにして、神の霊、息こそが私たちを生かす源であると聖書は証ししています。
この私たちを生かす息が、教会を教会とするのです。「一同が一つになって集まっている」とあるようにそこにはキリストの弟子たちは集っていました。そんな彼らに主は「猛烈な息」を送り、神の御心を語る者へと造り変え、新しい命の道へと遣わし、教会という神の御心を世に証しする人々を召
し出したのです。
しかしこれは新奇なことではありません。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している」(民1・29)と語られているように、神は私たち一人ひとりが主の御ことばを人々に語り、伝えることをずっと心から望んでおられることです。
ですから、それは今を生きる私たちに対しても神が望んでおられる思いです。私たち一人ひとりが神から召された預言者であり、神の御ことばを世に宣べ伝えることによって教会は教会とされる。この神の出来事こそが教会が教会として立つ本質です。
私たちは、様々に対策を講じ、宣教とは、伝道とは何かと考えます。しかし、それが人間の知恵によるものに陥っていないか。私たちに与えられている猛烈な息を感じない状態にないか。その息は、何をせよと、何を語れと命じているでしょうか。この事を改めて神から問われています。神の御ことばを伝えること、そのままに、私たちの思いを混ぜて語るのではなく、神の御ことばそれ自身を語ること。これこそが主が切望し、命じられていることです。
ですから御ことば(神)を信じ、委ねていくことによって初めて教会は、キリストを、世に主を証しすることができます。その時、先に述べた私自身の思いに加えて、それを止めさせようとする同胞も居ます。嫉む者や妨害する者もあります。酒に酔っていると嘲笑する者も現れます。
時には教会は世の通説や、言説、慣例などと反発する時もあります。しかし、それが神の御ことばであるならば、私たちは「わたしの言葉に耳を傾けてください」と叫ぶのです。主はこう語られている。全ての人が主の御心を知るために世に語り続けねばなりません。私たちは主の猛烈な息に生かされているのですから、それらの者には決して殺されません。
この源である息をキリストは受けなさいと命じられています。私たち自身では語りえない言葉を語らせ、成し得ない行いを成し遂げるための力をキリストの息を受けることによって与えられるのです。キリストを語るためにキリストから与えられている息が私たちを真に生かし、預言者としています。
息をしなければ語れないように、この息が無ければ御心を語りえない、成し得ないこと。主が私たち一人ひとりに猛烈な息を吹き込んで臨み、私たちを満たしています。
「主の民すべてが預言者になればよいと切望している」神の御心が現実となることを私たち自身の祈りとし、神からの息に導かれ、強められながら福音宣教が成ることを信じていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
日本福音ルーテル西宮・神戸・神戸東教会 牧師 竹田大地