遅れてきた夜明け
「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』」
ヨハネによる福音書20章25節
十二弟子のひとりトマスは、この聖書に記された出来事から、「疑いのトマス」という不名誉な称号で呼ばれることがあります。しかし、中学校の授業などで弟子の話をするとき、このトマスは人気のある一人です。 心身ともに多感な成長期を迎えている彼ら・彼女らにとって、このトマスの「疑い」は非常に共感しやすく、「疑ってもよいのだ」と安心できるのでしょう。実際、このトマスは、後にイエス様の彼に対する言葉の中に「見ないのに信じる人々は幸いだ」(29節)とあるように、主イエスを実際に見たことのない世代の代表でもあるのです。
「見ないのに信じる人々は幸いだ」…これは逆に、見えないもの、見たことがないものを信じることがどんなに難しいことかを表します。ましてや、トマスは自分一人だけ、主イエスの復活に居合わせることができなかったのです。
このトマスはもともとかなり熱心な弟子であり、十字架前のイエスがエルサレム方面に赴かれる際には「俺たちもイエス様と行って、一緒に死のうじゃないか」(ヨハネ11章16節)と勇ましく他の弟子たちを鼓舞するようなところもある人でした。
復活の主が最初に他の弟子たちに現れたときになぜトマスがそこに居なかったのか、その理由は記されていません。もしかするとトマスはその熱心さの分、主の十字架の衝撃、またその十字架の前から逃げ去った自分自身への後悔から、仲間に合流できずにいたのかもしれません。
するとその間に、自分以外の弟子たちに、復活の主が現れた。他の弟子たちは「俺たちは主を見たぞ」と喜び、盛り上がっている。「イエス様の手の釘跡とわき腹の傷を見、そこに触れてみなければ、わたしは決して信じない」…この言葉からは、トマスの懐疑と共に、信じる輪の中に入ることのできない哀しみ、周囲の喜びから自分だけが弾き出されたトマスの強い孤独も感じられます。
しかし、そこに再び現れた復活の主イエスは、他の弟子たちも共にいる中を、トマスただひとりに向かって語りかけられます。「手を伸ばして、あなたが言っていたとおり、私の釘跡、わき腹の傷に触れてみなさい」という主の言葉には、このときだけではなく、トマスが復活の主に出会う前、他の弟子たちから取り残されたように感じていたとき、しかしその彼の言葉が確かに主イエスに届いていたことを示します。トマス自身が誰からも見捨てられ、暗闇の中にいるように感じていたときですら、主は確かにトマスを心に留めてくださっていたのです。
遅れてきたトマスの復活体験は、そのできごとを聞く私たちを慰めてくれます。トマスのことを覚えておられた主は、あなたのことも確かに覚えていてくださる。そのことを、直接主を見ることができない世代に伝えるために、このできごとは福音書に書き残されました。 復活が頭では分かっても、心が信じられないときがあります。また今もなお、恐れや不安が支配する場所があります。
しかし、主は「すべてが終わった」と誰もが思ったあの十字架の死から、起き上がってくださいました。「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち」…私たちの理性や常識、恐れや孤独、固く閉ざされた扉、それをものともせずに超えて来て、私たちと出会おうとしてくださる方が、確かに生きておられるのです。
その方こそ「わたしの」主、どこまでも私たちを追い求め、心に留めてくださるお方です.
室園教会牧師 西川晶子