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バイブルエッセイ

憐れみを受け、恵みにあずかって、大胆に

 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
(新約聖書ヘブライ人への手紙4・14~16)

 召されている現場で、種々の事態を、何とかして冷静に受け止めようと立ち止まる、その時々に、幾度となく励まされている聖書箇所は数多くありますが、その一つがこのメッセージです。

 神学校を卒業し、按手礼を受けて牧師とされて赴任する時、育ててくださった先輩牧師や神学校教師たちが、「激励歓送会」を設けてくださいました。その折に、「み言葉を取り次ぎ、語る使命を頂いたのだから、果たすためには、語る前にまず、あなたがみ言葉(聖書)を読むだけでなく、じっくりと聴くことを大切にして欲しいな。」と助言くださいました。1971年でしたから、46年も前になります。以来、私なりに色んな取り組みを続けています。
 その一つは、福音書の場合ですと、その記述に登場する人々のどの人に自分が該当するだろうかと思い巡らせることです。ここでは引用できない節数なので、どうぞ、お手元の聖書を実際に開いてみてください。マルコによる福音書9章14節以下です。

 登場するのは、群衆の中で「病気の子を持つ父親」、「イエス様の弟子たち」、それに「弟子たちと議論している律法学者たち」がいます。弟子たちは人々に問いかけられ、子どもの病気に癒しを求められ、さらに、専門家である律法学者に議論を吹きかけられています。返答に詰まり、散々な目に遭っています。そこには、イエス様はおられませんでした。

 神学校を出たての新米牧師の私にそっくりです。人生経験も、深い信仰体験もなく、聖書もよく分からないまま、教会に遣わされて、何かにつけおろおろするばかりでした。イエス様が不在で働いている気持ちになっていたのかも知れません。まず、自分を弟子たちに当てはめて読んでみました。

 そこへ、イエス様が戻って来られて、その場の事情をお知りになると、三つのことを言われました。①「なんと信仰のない時代なのか。」 ②「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。」 ③「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」これらの言葉は誰に向けられたのでしょう。そこにいたみんなにと考えてもいいし、「信仰のない時代」というのは、群衆と父親に対してだろう。「いつまでも共に」というのは弟子たちに。「我慢しなければならないのか」というのは律法学者たちに向かってと読むと、分かるような気がします。

 私は、当初、不甲斐ない弟子たちに自分を当てはめていました。しかし、牧師として日々を重ねるうちに、いや、それだけではなくて、この病気の子を持つ父親でもあると気づかされていきました。「大祭司・イエスの憐れみ」を受けなければならない者であった父親は、まさしく、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)と叫ばなければならない私です。

 この箇所は、「大祭司の憐れみにお委ねします。大祭司の恵みにあずかって歩ませてください。」そう叫ばなければ前に進めない自分を見つめることのできた気のする福音書の箇所です。
 ありのままの私を見つめ、弱さに同情の眼差しを送り、知っていてくださる「大祭司・イエス様」の前に大胆に進み立ち、「主よ、憐れみたまえ。」と、心から告白して、恵みにあずかって、新しい日々を、新しくされたいのちで生かされていきましょう。

日本福音ルーテル西宮教会 牧師 市原正幸

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