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バイブルエッセイ

心動かされて

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイによる福音書9章35~38節)

 
 弟子たちとガリラヤ地方を巡り歩くイエス様。イエス様は方々の町や村で福音を宣べ伝え、病を癒すわざを行っていきます。そこでイエス様は、人々が飼う者のない羊のようなありさまであるのを見ます。世話をするもののない羊に例えられる姿、それは、生活に疲れ果て、不安や心細さ、あるいは苦痛を抱え、訴えながらも、どうしたらその状態から脱出できるのか判らない人々を表しています。
 

 その状態を見て、イエス様は「深く憐む」のです。この深く憐れんだという言葉は、「彼らのことで腸のちぎれる想いに駆られた」ということを意味します。それは上から見下ろすような同情とは違うのです。腹の底から突き動かされるような衝撃を受けたということです。この思い、体験。それがイエス様を次の行動へと突き動かしていくのです。12人の弟子たちを宣教と癒しのわざを行うために派遣するのです。

 その弟子の派遣。およそ現実的とは思われない勧めがなされています。つまり、弟子たちは身に付けた衣類以外の物は、何も持つことを許されないのです。そこでは手ぶらで出発するようにといわれています。

 ここで、この手ぶらで出かけるということの意味を、少し自分のこととして考えてみたいのです。
 人が何かを始めようとするとき、資格や技術があることは、確かに役に立つことのように思えます。しかし実際のところ、過去の経験の中では、「私にはこんなことが出来る」とか、「こんな技術を持っている」ということは、さほど私を助けてはくれませんでした。むしろ「自分はまだまだだなぁ」と思うことの方が多かったし、今もそうです。だから「私は何かを持っている」とか、あるいは「他の人に上げることのできる何かが自分にある」と考えることは、おこがましいのかもしれません。

 実際、そのとき必要だったことは、「私が教えてあげる」という姿勢ではありませんでした。あるいは自分自身の技術や資格に対する自信でもありませんでした。むしろいろいろな人たちとの出会いの中から、私自身が何かを学ぶ、教えられることの方が多かった、ということです。ですから、たぶん弟子たちが出かけるときに、手ぶらでいることを求められているのは、そうした「出会って、聴き、学ぶ」姿勢を持つことを意味するのです。

 イエス様が語る「収穫」とは、「人々の思いを聴くこと」であるともいえます。人々の感じる苦痛や悩み、怒り、あるいは喜び、それを聴いて集めていくこと、それが収穫なのではないか、と思うのです。弟子たちがなすべきことは、人々の思いを携えてイエス様の前に差し出すことです。そのことが癒しを起こすし、癒しそのものであるといえます。それはまた、派遣された弟子たちにだけ命じられていることではない。 今の教会に対しても、私たちに対してもまた、命じられていることなのです。私たちが出会う人たちの思いを、また私たち自身の思いを聴き、集め、イエス様の前に携えていくこと、その「収穫」と癒しのわざが求められているのです。

 最後に、弟子たちは、自分たちだけが派遣される者として立てられているのではないということも重要です。弟子たちに求められているのは、働き手が増し加えられるようにと祈ることです。そのために心を砕き、思いを巡らして祈ることです。この働き手が与えられるように祈るとは、決して「誰か他の人がやってくれる」と任せっきりにしてしまうこととは違います。ふさわしい働き手を、信頼に足る働き手を、探し育てることでもあります。

 それゆえに弟子たちは、イエス様自身が感じたように、出来事や出会いの中で、心深く憐れみ、心突き動かされる体験から感じとることを、やはり求められているのです。

 今、現代に生きる私たちが、弟子たちのように、伝道へ、福音宣教へ、癒しのわざへと召し出されていくことを望むならば、私たちもその感性を磨くことを忘れてはならない、そう思うのです。

日本福音ルーテル宮崎教会牧師  秋山 仁

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