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バイブルエッセイ

イエス様が共にある十字架を背負って

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、
わたしに従いなさい。」         (マルコによる福音書8章34節)「イエス様が共にある十字架を背負って」

 車の運転を始めた頃、父に「牽引ロープとバッテリーケーブルを常に携行するように」と言われました。助けてもらうだけでなく、助ける側になることもあるから、心構えと準備をとの親心だったのでしょう。実際、北海道の冬場、雪に埋まった車の救助を何度もし、自分も助けられました。父の言葉に従って良かったと思い、準備の大切さを実感したものです。
7月の豪雨の後、岡山県内の倉敷真備地区に災害支援ボランティアとして何度か参加しました。河川の氾濫で4500戸以上が浸水し、5メートル(2階の窓付近)まで水が来た地区です。岡山のキリスト教会の群れや聖公会のチームに加えていただき、日本各地また海外からのメンバーとも共に働きをしました。炎天下、重たい泥を家からかき出したり、大きな荷物を搬出したり、思い出の品を綺麗にしたり。水に浸かってしまったものは臭いとの戦いでもありました。時には何週間も溜まっていた水を被ったこともありました。まさに泥と塵を被ることが奉仕であると実体験する時でした。
また一ヶ月ほど経ってからは作業だけでなく、その時のお話を聴くことが寄り添う大切な時にもなりました。働く者一人一人が言葉でなく、その姿を通して、キリストを証しする生き方がありました。隣人として立たせていただく時でありながら、重たいものを背負う、大変な作業が続く中で頭の中に「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と何度も浮かんできました。

 十字架とひと言で言っても意味や表現のされ方は様々です。感謝すべきことに礼拝堂の十字架が特徴的な教会で働きを担い、思い出深いものがいくつかあります。釧路教会は真っ黒い十字架で、人の罪を象徴する十字架。帯広教会は重厚な木で掘られた手が見える十字架で、それは罪の赦しを与えるイエス様の愛を示す十字架。広島教会の十字架は柔らかい曲線の十字架で、キリストの愛と恵みを無言のうちに表現する十字架。そして、岡山教会の十字架は陽の入る時間によって影が変わる十字架で、常に変わる弱さを持つ人を思わせ、その変わる心ゆえにイエス様の十字架が必要と教える十字架。十字架そのものが多様な意味を持つものですから、イエス様が言われる「自分の十字架」にもいくつもの意味があるのです。

 「自分の十字架」はもう一歩踏み込みます。十字架は元来、罪人の処刑に用いられるものですから、罪の象徴、弱さの象徴、重さや困難さと言えます。わたしが今抱えているもの、現実そのもの、時として過去や未来が一つの自分の十字架です。しかし、私たちが背負うのは決してただ重たいだけのもの、背負うことを拒否したくなる十字架ではありません。なぜならば「空の十字架」ではないからです。キリスト者は常に「イエス様が共にある十字架」を背負って歩んでいきます。イエス様が共にある十字架は「愛の十字架」に他なりません。イエス様がなさった働きに倣う、倣おうと志す私たちは愛の十字架、キリストその方を背負うよう呼びかけられています。使命はそこに喜びがなければ背負うことはできません。ボランティアとしての働きは楽なものではありませんでした。それでもキリストの愛を届ける働き、使命、イエス様が共にあると信じ、仕え合う中にある喜び、互いに愛しあう中に感謝があったから愛の十字架を背負えたのだと振り返っています。

 大きな災害を目の当たりにし、準備をしていてもそれを用いることができない事態があることも教えられました。けれども、心だけはいつも準備しておくことができます。その時にどうするかを考えることではなく、何があっても主は共におられると心に留めることが心の準備です。
イエス様が共にある十字架、愛の十字架を背負うことは、助ける・愛を届ける準備と共に、助けられる・愛を受け取る準備です。互いに愛しあうことを教えてくださった方に従う喜びの道を、イエス様が共にある十字架を背負って歩んでまいりましょう。
日本福音ルーテル岡山教会、松江教会、高松教会、福山教会    牧師 加納寛之

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