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機関紙るうてる

るうてる2010年9月号

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説教「御名をあがめさせ給え」

 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』…」 ルカによる福音書11・1~13より

スピードと変化、膨大な情報、有無を言わさぬ効率主義と過度の競争社会。絆を見失った個人主義。休むことを許さないような慌ただしさが、現代にはあります。
 その中でなおも、「御名をあがめさせ給え」と祈るわたしたちの祈りは、いったいいかなる意味を持つのでしょうか。言うまでもなく、この言葉は「主の祈り」の冒頭の句です。主の祈りのすべては、この句に収斂すると言ってもいいと思われます。2000年来唱えてきた主の祈りは、今では何となく流してしまう嫌いがありますが、この祈りは変化とスピードに生きざるを得ない現代人に、いかなる生きる知恵と力とを与えてくれるのでありましょうか。
 主イエスは、弟子たちに言葉での祈りを教えられました。中でも主の祈りは、弟子たちの求めから始まりました。弟子たちは、主イエスに「問い」を発しました、「祈りを教えてほしい」と。なぜなら、「神の国はいつ来るのでしょうか!?」「何をすれば、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか!?」という、当時の社会人(律法の専門家や富める青年)からの糾弾に応える必要があったからです。そこには、ルカの教会の伝道の、行き詰まりと苦悩が隠されています。そのとき、ルカの教会は、変化している社会に追随するような応答をしませんでした。むしろ、主イエスに問うたのです。主は答えられました、「祈れ」と。「御名をあがめさせ給え」、と唱えよと。この言葉は、神が語りかけることを許さない秘密の場所を、自分の中に保留しないことを確認することを意味します。自分自身のなかに、主に委ねない部分があってはならない、というのです。それが神の国への活動の、アルファでありオメガであるというのです。
 主の祈りは、異邦人伝道のなかで、異文化にさらされて自らを見失いつつあったルカの教会が、自らの立ち位置を再確認して自信を回復していった教会史を反映しています。そうであればわたしたちは、急速に変転する現代社会のなかで、自らの立ち位置を再確認させてくれるみ言葉として、主の祈りをもう一度読み直したいのです。
 教会は、伝道を重要な使命とします。しかし、伝道の停滞が言われて久しいものがあります。その度に、様々な伝道方策、アイデアやグッズなども提示されてきました。会計問題も喧しく論じられてきました。イスカリオテのユダに聞くまでもなく、そのことの重要性は、誰も否定しません。しかし、その度に思うのは、変転する現代社会の表層のみを、教会は追いかけているに過ぎないのではないかというもどかしさです。教会も社会に生きる限り、科学の進歩とグローバル経済の動きに追随していかなければならない部分もあります。現に最近の文明利器の急速な進歩によって、現代の伝道のあり方も大きく変化をしいられています。しかし、そのような利器の活用と、そのような現代社会で疲れ切った人を慰めていかなければならないという伝道の職務とは同一ではありません。
 生きることの底力をわたしたちに与えるものは、わたしたちが神と正しく結ばれ、神と正しく交わりをいただいているか否かにかかっています。人の生きる底力は、自分の存在に意味を与えられたときに出てくるものです。その意味で、ルカの教会が「主の祈り」として、主イエスから聞き取ったことの中に、教会の伝道の神髄をいつも思い起こしてみる必要があるように思われます。「静まって神に己をまったく委ね、神をほんとうにすべての人間とすべての事柄の上にいます『聖なるかた』たらしめることを、喜んですることが、何にも優って重要なのである」。H.ティーリケは、第2次大戦末の爆撃下でした『主の祈りの説教』の中で言い、さらに「そうする時に、すべてその他のことはそこからおのずと起こってくる」と書いています。
 急速に進んではいても、羅針盤なき高速船に似た現代社会です。何故「御国を来らせ給え」と祈るかというならば、人間の社会に根底を与え、行くべき目標地を指し示さんがためです。ルカの教会はここに神の家族の存在を示されて力付けられ、異文化の中での伝道に向かう勇気を与えられたのです。今後わたしたちの「激論」は、このことに関連して起こらなければならないと思います。
唐津教会 牧師 箱田清美

風の道具箱

ブラームスさん子守唄を

毎年「異常気象」と言われて続けています。今年はとくに残暑が厳しく、はやく寝苦しい夜から解放され、秋の夜長をみ言葉と祈りで過ごしたいと願っています。
 祈りというテーマで素敵なジョークをみつけました。  母親「ママたちは、今夜お客様で忙しいけど、ベッドに入る前に、ちゃんとお祈りしなくちゃいけませんよ」  娘「はい、ママ」  翌朝のこと。  母親「昨日の夜は、ちゃんとお祈りした?」  娘「ええ、ママ。ひざまずいて、いつものようにお祈りしようとしたんだけれど、その時ね、神様はいつもと同じお祈りに飽き飽きしちゃってるじゃないかしらってひらめいたの。それでベッドに入ってから、神様に『三匹の子豚』の話をしてあげたの」
 ブラームスが子どもたちに子守歌を歌ってもらったら、どんな顔をするでしょうか。きっと大喜びすると思います。「ねえねえ、聞いて、聞いて」と、子どもの声は幸せを運んでくるのですから。

牧師の声 私の愛唱聖句

本郷教会 安井宣生

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」創世記2章18節

 10分。キャンプ開始後、最初の食事にかかった時間です。これがその後の食事ごとに20分、30分と伸びてゆき、2日後の朝には1時間以上も必要となりました。食事の量が増えたのではありません。当初、初対面の緊張もあり言葉少なに黙々と食べるだけであった食卓が、キャンプでの生活を共にしていくうちに、話してばかりいないでしっかり食べなさいと声をかけなければならないほどに賑やかなものとなっていったのです。
 一人一人の心と心の結びつきの深まりを感じる、感動的な出来事でした。数年前、銚子集会所で行われたティーンズとの4泊5日のワークキャンプでの思い出です。

 月に1、2度、私よりちょうど50年歳年上の人生の先輩に招かれて一緒に食事をすることがあります。お一人暮らしのこの方は、「普段一人で食べるのはつまらないしおいしくないのだけれど、今日は幸せだ」とおっしゃって、沢山のお話しをしてくださいます。私はただ一緒に乾杯し、おいしく食べてお話しを伺っているだけなのですが、先輩は食卓を共にすることを喜んでおられます。

 食べるというのは、生命維持のために食物を体内に取り入れるという活動に留まらず、共に食卓を囲むだれかと「おいしい」を共有することで心を通わせ、一緒に生きる経験をすることであると思います。イエスさまも人々と共に食卓を囲み、また「最後の晩餐」では、「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われました。

 神さまは人を決して独りぼっちにはしません。他者の存在を喜ぶこと、一緒に生きるという幸いを味わうことを期待して、わたしに他者を与えてくださっているのです。そしてわたしもまた、誰かといのちをわかちあう他者として神さまに造られているのです。
 このみ言葉は神さまの創造の決意と期待を告げ、「おいしい」を共にするあたたかな生き方へとわたしの背中を押してくれています。

信徒の声 教会の伝道の最前線に豊かな恵みあり

甲府教会  志村治夫

 礼拝式のために、旧約聖書、使徒書、福音書、そして、讃美頌の詩編を。3週間前から、礼拝式がいのち溢れるものになるよう、祈りを重ねて行く。主は導いておられる。感謝します。いくら学びを重ねても、その日のメッセージに、いのちを注いでくださるのは神の恵みです。主は、いつも生きて働いておられると、ひしひしと感じます。そして、学びを重ねるほど、説教の内容は、しっかりしてきます。
 東教区が「信徒奉仕者養成プログラム」を大変な苦労をされて完了されたのが、二〇〇九年。私たちの教会(甲府教会、諏訪教会)が大きな問題を抱えて、必死であえいでいた最中でした。この学びは、私にとって、癒しとなり、救いの、そして、励ましのプログラムになりました。今は亡き、平岡正幸牧師が、甲府・諏訪に来て下さることが決まった年に、開始され、一年半の長きにわたり幅広い学びができました。平岡牧師も、牧会カウンセリングの講座を担当されました。平岡牧師の急逝により、甲府諏訪には引退教師の中村圭助牧師が赴任され、「信徒説教者」として、私を起用してくださいました。
 私のつたない説教を聞いて、励ましてくださるのは信徒の方々です。説教の完成が、ギリギリになり、土曜の夜はよく眠れないのを妻は知っています。甲府が午前の礼拝、そして、諏訪が午後の礼拝です。行く道、帰る道の事故を恐れて、この様なスケジュールは、私の場合、二度ほどで早々に中止になりました。妻の叫びを中村牧師が、聞いていたのです。
 礼拝が中心に、つまり、福音のメッセージが基礎になって、牧会、伝道へと繋がり、広がってゆくのが、理想的な教会形成です。地味ですが、ここにおいてしか、教会の発展の道はないと、私は思っています。牧師の個性に頼り、人間中心の教会形成は問題であると、私は感じています。「我ここに立つ」万人祭司のメッセージを、実現して行きましょう。
 「信徒奉仕者養成プログラム」の追加を、ぜひ早急に実施してほしいと願っています。まだまだ足りない人材、学びのリーダーを発掘することにより、教会の伝道、宣教、そして牧会が、より豊かなものとされることを願っています。教会員全てが、この恵みに与ると良いと思っています。

園長日記「毎日あくしゅ」

ゆったりとした時から、さあ二学期!

 あるお母さんから「夏休みは兄弟でけんかしたり、ベタベタしたりしながらゆったりとした時を過ごせるのがいいですね」とおはがきをいただきました。こんな風に感じることができるお母さんてステキだなーと思うと同時に、慌ただしい毎日から解放されてゆったり過ごすことができる時は、おとなだけでなく、子どもにとっても必要で、大切な時であると改めて教えられました。
 休み中、一人の卒園生から三通の手紙が届きました。一時期登校がつらい時があったAさん。二つのクラブ活動に所属し、委員としてがんばっていること。今でも読書が大好きで本を読んでいること。最後の便りには、夏休みの宿題も済み、お手伝いだけが残っていますと。どの便りも、短くも生き生きとした近況が語られて、夏休みのゆったりとした時の中で一学期を振り返り、少しずつ二学期に心を向けつつあるAさんの思いが伝わってきて、返信を書くたびに、「もう大丈夫!」と嬉しい思いをいたしました。
 わたしたち教師もまた、休みに入ると一学期の振り返りをします。一人ひとりの子どもへの関わりを振り返り、二学期に向けての目標を話し合います。普段、ゆっくりできなかった保育室の整理、二学期のいろいろな行事の準備、いくつかの研修会に参加しての学び合い。夏休みは教師のとっても大事な充電の時でした。
 つくつく法師がせわしなく鳴き、夜には庭の虫たちが鳴き声を競っています。二学期に向けての心身の準備を促しているようです。幼稚園に真黒に日焼けした子どもたちの歓声が戻ってきます。九月の半ばからは運動会に向けて練習が始まります。今年のテーマは「希望 ―共に喜ぶ―」です。神さまに「よし」とされた一人ひとりであり、「生まれてきてよかった」と喜び、つながりあい、支え合う喜びの表現が子どもたちとできたらと願っています。二学期も神さまのお守りとお導きのうちに歩めますように。
日善幼稚園園長 岩切華代

日本福音ルーテル教会の社会福祉施設の紹介 その6

社会福祉法人慈愛園 
盲ろうあ児施設「熊本ライトハウス」
障がい者支援施設「熊本ライトハウスのぞみホーム」

施設長 山口初子

 90年前。慈愛園の創設者である宣教師、モード・パウラス女史が、必要な福祉ニーズに対して「神の愛の種」を熊本の地に蒔かれました。慈愛園乳児ホームで過ごす、視力の無い一人の赤ちゃんの存在が、当施設誕生のきっかけとなりました。
 「熊本ライトハウス」の設立は昭和28年。熊本県唯一の視覚や聴覚の障がいを有する「盲ろうあ児施設」として、設立されました。
 その当時、視覚や聴覚障がい児の自立に向けた社会参加のために、日本で最初の障がい児スカウト「ボーイスカウト熊本14団」。その後、ガールスカウトも結成され、多くの卒園者がたくましく社会に巣立っていきました。理念は、愛情溢れる家庭的なホーム制であったことです。
 時代と共に、福祉のニーズは変わり、家庭復帰や社会への自立が極めて困難な成人(重い知的障がいや自閉傾向が強く、視覚や聴覚の障がいを併せ持つ人)の「生活の場」が切望され、平成5年に知的・盲重度重複障がい者施設「熊本ライトハウスのぞみホーム」が、待望の開設となりました。その後は、定員増で40名。成人の「のぞみホーム」を本体施設、「児童ホーム」を、併設施設とした一体的な施設運営で、変化する制度や福祉ニーズに対応しています。
 現在、児童は17名。視覚や聴覚、知的、発達障がいを有する子ども。さらに、緊急性の高い”心の傷を負った子どもたち”を受け入れています。2棟のホームで、愛情いっぱい受けながら生活し、各学校に通学しています。
 のぞみホームは、平成22年4月より、障がい者支援施設として新体系に移行しました。「一人一人の個性を大切に、寄り添う」「家庭的で、笑顔あふれる温かいホーム」をモットーとする、県下で唯一の特色あるホームです。
 創設以来、近くの日本福音ルーテル健軍教会に支えられてきました。今も、のぞみホームの木曜礼拝や、毎週日曜、朝6時30分からの早朝礼拝。教会員や利用者の方々と共に祈り、讃美する時間を大切にしています。また地域との連携も強く、「高齢者給食サービス」や「地域交流会」「ふれあいバザー」「クリスマス会」など大好評です。
 制度の変化で、施設も厳しく課題も大きいですが、神さまのご計画の中で、福祉のニーズに応え、地域と共に歩みたいと願っています。

高齢者伝道シリーズ(P2委員会)
「ホスピス・緩和ケアについて」

ピースハウス病院最高顧問 信愛病院緩和ケア病棟顧問 東京池袋教会員 岡安大仁
      
 さて、ターミナルケア(終末期医療)という言葉は思いの外最近できた言葉なのです。英国のホルフォード医師(1973年)が定義づけ使いはじめたと言われています。
 同じく英国のシシリー・ソーンダス医師がロンドン郊外に聖クリストファー・ホスピスという近代ホスピスを創設(1967年)した一連の流れの中です。
 ホスピスとは皆様もご存知のように中世紀に修道院が巡礼者や十字軍の傷病者のための宿としてヨーロッパ各地に創った「宿」のことです。
 それは、マタイ福音書25章35節から36節の言葉からとったものです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」
 ホスピスはその後機能が専門分化してホテルやホスピス(病院)やホームなどになり現在に至りました。そして、近代のホスピスは主として癌の終末期にある患者さんの苦痛を除去するための施設となりました。さらに最近ではホスピスという代わりにパリアティブケア(緩和ケア)病棟と言う用語が世界的に用いられるようになりました。しかも今後は緩和ケアは癌の終末だけでなく、慢性疾患の終末や高齢者の苦痛への対応にも使用されていくであろうと考えられています。

釜ヶ崎ディアコニアセンター喜望の家
「ディアコニアを生きて」

 牧師 秋山 仁

 喜望の家は、大阪の日雇い労働者の町・釜ヶ崎にあります。ドイツ人のE・ストローム宣教師によって35年前に開設されました。以来、日本福音ルーテル教会が行う「緊急に必要とされる援助と支援」というわざ、ディアコニアの働きをしてきました。ディアコニアとは、人と人との関係を生み、その関係を動かす福音が、より具体的な形になったものです。
 喜望の家では、釜ヶ崎で生活しているアルコール依存症の労働者が回復するためのリハビリテーションを提供し、また生活相談などを行っています。この働きは、全体の状況から見れば微々たるものです。しかし、過去に病院でも施設でも断酒できなかった労働者が、リハビリテーション・プログラムを通して、自分で生活を支える、つまり「自立・自律」しているケースがあるのも事実です。 私たちが提供しているプログラムを必要としている人たちがいるということです。「必要とする人にプログラムを提供する」ため、喜望の家では、社会福祉法人にならずに、支援してくださる方々の献金のみで活動してきました。
 この歩みの中に一貫して流れてきたもの、それは「釜ヶ崎で生活する労働者と共に生きる」ということです。日雇い労働者が何を考え、望み、どのようにそれを実現していくのかを、よく聞いて理解し、一緒に歩んでいくことを目指してきた、といえます。そのための課題が地域のアルコール問題であり、生活相談、そして夜まわりでした。同様に喜望の家が大切にしてきたもの、それはこのディアコニアのわざを教会が社会の中で行っていくことです。ルーテル教会が喜望の家に牧師を働き人として送っていることは、ここが教会のわざであることを証しています。 直接の責任は西教区が負っているとはいえ、この働きは日本福音ルーテル教会全体の働きです。
 喜望の家の歩みは、ストローム師の思いや志、それを引き継いできた人々の思いも含めて、「ディアコニアを生きる」ことであるといえます。この働きを継続していくためには、皆様のお支えが必要です。今後ともよろしくお願いいたします。
ホームページ・アドレスhttp://www.geocities.jp/kama04kibonoie/index.html

第11回LWF総会報告

総会議長 渡邉純幸

 第11回LWF総会は、主の祈りの一節、「日ごとの糧を今日も与え給え」をテーマに、2010年7月20日~27日の期間、シュツットガルト(ドイツ)で、開催されました。
 今期総会で、アジアから新たに5教会がメンバーに加わり、世界の79カ国、145のルーテル教会から代表者が出席しました。LWFに属する教会員は、現在、全世界で約7千万人を超えています。
 この総会にローマカトリック教会からカスパー枢機卿が、ローマ法王ベネディクト16世からの挨拶を携えて出席されました。枢機卿は、「ルーテルとカトリックとの関係は、両教会の国際的な対話が始まって以来、残されている課題がまだありますが、両教会間の更なる伸展を期待します」と話されました。
 また、イギリスカンタベリーのローワン・ウィリアム大主教は、「今総会のテーマ『日ごとの糧を今日も与え給え』は、また教会の豊かさを明らかにするものです」と基調講演されました。そのことに対して、LWF事務総長のイシマエル・ノコ氏は、イギリス国教会とルーテル教会が共に歩み続けることを確信していると語りました。
 そして総会にて、長年来の歴史的確執の関係にあったメノナイト国際教会との関係について、今期LWF総会で、総会議長マーク・ハンセン監督は代表して、「アナバプテスト(再洗礼派)」に対してルター派が16世紀に行った迫害について赦しを求めました。議場にて、「これは相互の信頼と懺悔と赦しの象徴と言えるものです」と、メノナイト教会から足洗いの桶がLWF議長にプレゼントされました。
 ところで、これまで長きにわたり事務総長のイシマエル・ノコ氏、総会議長マーク・ハンセン氏に代わり、事務総長にチリ出身のマルチン・ユンゲ氏が、総会議長に、パレスチナルーテル教会監督のムニブ・A・ユナン氏が選出されました。ユナン氏は挨拶で、「世界の癒しを進める。宣教、加盟教会への奉仕、エキュメニズム、世界の正義のために働く。わたしがアラブキリスト者であることが他のキリスト者によって、他の信仰の人たちとの対話の際に役立つことに意味がある。」と、力強く決意表明し、議場は大きな拍手でその選出を歓迎しました。
 また、「日ごとの糧を今日も与え給え」のテーマのもと、世界の貧困による問題等が報告され、特に環境・気候変動の問題、また女性委員会は、人権(人身売買を含む)に対して、家庭内暴力の問題、HIV&AIDSの問題等が報告協議されました。HIV&AIDSに関しては、アフリカのルーテル教会に属する信徒からの報告もあり、輸血をとおして感染した牧師の証言が報告されました。総会声明文が承認され、八日間の総会が閉幕しました。
 終わりに際して、総会においては、今期の理事の48名を選出し、その割合は、男性22名、女性26名です。この48名の中に30歳以下の青年が10名含まれています。
 なお、この22名の男性の中に、浅野直樹牧師が、アジア地域代表の一人として選出されました。また、これまでアジア地域からの青年代表の一人としてLWF理事に加わっていた関野和寛牧師が今総会を持ってその任を終えられました。これまでの関野先生の働きに感謝するとともに、新たにその任に当たる浅野先生の働きを覚えたいものです。

西地域教師会報告

 西地域教師退修会が2010年6月21日~23日、岡山いこいの村でありました。今年は「神の家族」~信徒育成~(求道者会や洗礼準備会等の実際と課題)をテーマに、小教理・大教理問答書からの提言や堅信教育の事例を発表、討議しました。
 このテーマは牧会経験の少ない教師から提案されました。神学校では洗礼準備会に小教理問答書を使うと習いますが、実際にどのように活用しているのでしょうか。実際を見ること、神学生時代に洗礼や堅信準備会に立ち合い、実際の出来事に触れる機会はそう多くはありません。
 事例ではアメリカとドイツの堅信教育と賀茂川教会の堅信プログラム(2年間)の紹介がありました。ドイツにおいては日本の成人式のような習慣と義務の中で実施されているので、それがよいのかどうかは考えさせられるというお話しでした。ですが、生涯を通して誕生、洗礼、堅信、結婚、葬儀といった節目の時期に、教会へと帰って来る一連の流れが出来上がっています。参考にドイツのテキストの閲覧、自作のテキストの配布がありました。
 小教理問答書の活用については、そのものを使う場合と小教理問答書が下地となっている他のテキストを使う場合とがあり、牧師の選択によっています。また、牧師自身が内容を熟知しているか、学術的な研鑽が必要であることも指摘されました。洗礼準備会等は信徒だけでなく、牧師にとっても共に成長する機会です。
 「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(使徒8・31)。
 エチオピアの宦官とフィリポのような出会いと対話の機会が、宣教の最前線で増えることを願ってやみません。
 西地域教師会会長  小勝奈保子

池松綾子さん(小倉教会員)
個展で作品「祈る」を発表

 7月上旬、長野県上田市の上田創造館美術館にて池松綾子さん(小倉教会員)の個展「もったいないな ばあばの作品展」が開催されました。美術大学で洋画を専攻した池松さんは、現在、裂織を中心に芸術活動を続けています。
 「裂織」とは不用になった布を裂いて、麻や木綿の経糸に織り込んでいく織物の手法で、個展が「もったいないな」と言われるゆえんであります。
 裂織を中心に多種多彩な約50点で構成された会場は、大小の布状に織りあげられた作品、竹などと組み合わせられ、立体的に仕上げられた作品等々、観ていてあきることがありません。天井の高い、広い空間である会場全体が一つの作品となっている感さえありました。
 一つ一つの作品に作品名がつけられていますが、それぞれが池松さんの信仰に触れる思いがします。その中に「祈る」という作品(写真)があります。ひと際目を引くのは、会場の中央付近に天井から吊り下げられたその大きさからだけではありません。その作品について尋ねてみると、「中央にたくさんある丸いものはそれぞれ違った祈りを表わしています。自分だけの祈りではなく、いろいろな人のための祈りなど違った祈りがたくさん集まって、それぞれがつながって一つの祈りになっている」と教えてくれました。人それぞれ祈りは違うことがありますが、それらがつながって大きな祈りとなっています。違いをそのまま受け入れてくださる主への信頼、「祈る」という作品にそのような信仰をみました。
(松本教会牧師 佐藤和宏)

ルター研究所開設25周年記念出版
1533年版、ルターの説教『イエス・キリストについて』

 ルター研究所は、これまで世界に六冊存在することが確認されていたルターの説教、『イエス・キリストについて』(1533年)の初版本の七冊目を一昨年入手し、その復刻版と翻訳がこの七月についに出版されました。オリジナルそのままの復刻版に徳善名誉教授による翻訳と解説がついています。
 内容は、使徒信条第二項をテキストにした三つの説教です。宗教改革が始まってから一五年、この説教の中には、円熟さを増したルターの神学的洞察に裏付けられた単純で率直な福音が輝いています。

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