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るうてる《福音版》2009年11月号

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バイブルメッセージ  命の息を受けて

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』創世記2章7節

教会でオカリナ・コンサートを開きました。演奏者は小児科のお医者さんで、各地でボランティア演奏しておられます。
ピアノと共に奏でられるオカリナのやわらかな音色に、やさしく心が包まれました。オカリナの音色は人の心と体に優しくなじみます。懐かしさを感じるのは、土で造られているからではないだろうか、ふとそう思いました。土から造られたオカリナに人の息が吹き込まれて、心を癒す澄んだやわらかな音色となるのです。またその構造もシンプルですから、演奏者の息づかいも身近に感じるのです。
演奏の後、奏者は自作のオカリナを見せてくれました。手製のオカリナはどれも形が異なり、音色も違います。自作のオカリナがよい音色を出すときは、きっとうれしくなることでしょう。
オカリナと同じように、わたしたち人間も土から造られています。「神は土の塵で人を形づくり……」と聖書は記しています。そして土から造られたという点では人間は他の生き物と変わりません。しかし聖書はその後に、神が「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と記しています。「息」は「生きる」に通じます。人は空気を吸って生きるだけでなく、神の息吹を受けていきいきと生きるのです。
手作りのオカリナが一つひとつ形や音色が異なるように、わたしたちも一人ひとり違っています。ひとりとして同じ人はいません。それはわたしだけが出せる音があり、あなただけにしか出すことができない音色があるということです。わたしたちは神様の大切な手作りの作品です。
わたしが神の手に握られ、その息を吹き込まれてわたしの音楽を奏でる時、それは神様の喜びとなり、またわたしの喜びとなります。そしてその調べを聴く人々の喜びとなります。
わたしの心と体の中を、神様の命の息、さわやかな命の風が吹き抜けて、今日も喜びの音を奏でるように、神様の御手に委ね、神様の愛の息吹を胸いっぱいに受け取りましょう。
ジーコ

イエスの生涯 【その5】

病人を癒すイエス マルコによる福音書 1章29~31節
【祈りの言葉】
病いの床に、共にいてくださる主イエスよ。私に触れてください。あなたのみ言葉をください。そして、癒してください。

ナマステ、サンチャイチャ

ネパールワーカー楢戸健次郎先生

Q. 日本では診察までの待ち時間が問題となっていますが、ネパールではどうですか?
A.ネパールでも問題です。医師が少なく電気もないので、同時にはできないというのが現実です。
例えばレントゲンを撮る場合、発電機が必要になります。レントゲンを使っていれば超音波は使えません。1つ機械を使っているときは、他は使えないのです。
医者が一人で、その人が手術をしていれば、他の患者さんは待たなくてはいけません。

Q. 1日50~100人の方がいらっしゃるとのことですが、みなさん朝からずっと?
A.朝からというか、病院に来るのに遠い人は1週間も歩いてきますから、着くまでの1週間、これも日本で言えば待ち時間のようなものですよね。
一応9時が外来スタートです。もちろん救急部門もあるので、一晩に3~4人診ることもありますが、普通の人の場合は(9時まで)待ってもらいます。
病院がオープンすると、まず準医師が見て、例えばレントゲンが必要であれば、12時までは電気が使えないのでそれまで待ってもらいます。やっと撮っても、フィルムを乾かしている間に手術の患者さんが来れば、終わるのを待たなければなりません。夕方になったり、その日のうちに帰れないと泊まる人もいます。そしてまた3~4日、1週間かけて帰る人もいます。

Q. 病院の中に宿泊施設もあるのですか?
A.病院前の建物は下がレストランで上がホテルになっています。
入院した場合は、一つのベッドに複数の人が寝ています。付き添いで来ている家族や、時には他の患者さんと一緒に使うこともあります。
カトマンズの大学の救急病院に行っても、1つのベッドに2人患者さんが寝ていることがあります。
家族も床に寝ていたり、空いているベッドを使ったりしています。また、歩ける患者はいいですが、そうでない場合は担がれてきますので、担いできてくれた人も2~3日待っている場合があります。想像できないと思います。とにかく一度ネパールに来てもらって見てもらうのが一番いいと思います。

Q. 日本の病院も待ち時間が長いですが。
A.日本の病院で待ち時間が長いのはシステムが原因だと思います。
私が日本で家庭医をしていた病院は待ち時間がほとんどありませんでした。
まずは予約すれば待たないで済むと思います。あとはなるべく患者さんに来てもらわないようにすればいいのです。
日本は出来高制をとっているので、来てもらってなんぼ、薬を出してなんぼ、検査をしてなんぼ、なのです。イギリスなどは人頭割の制度を採っているので、1年間に例えば1人5000円で2000人登録してもらえば、何もしなくても医者は年間1000万円もらえるようになるのです。その医者にとっては、登録してくれた人が1年間、病気もしないで元気でいてくれるのが一番いいのです。ですから、治療より予防に力を入れるのです。
(つづく)

毎日あくしゅ

幼稚園にいますと、子どもたちの姿に感動を覚えることがあります。子どもたちが見せてくれる笑顔に、落ち込んでいたわたしの心が元気を取り戻すことがあります。
キリスト教教育を専門とするウェスターホフはこう言っています。信仰は「大人(知っている者)と子ども(知る必要のある者)というようなカテゴリーを、すべて、取り去る」(注)。たいてい礼拝で聖書のお話をするのは大人で、聞くのは子どもです。けれども信仰は、大人が子どもに教えるという一方的な型ではないということです。
幼稚園の園庭でこういうことがありました。
年中さんのゆかりちゃんは4歳です。朝、登園してすぐ、ゆかりちゃんは園庭に出ました。まだお友だちがいない太鼓橋をゆかりちゃんは、はしごのように調子よく登っていきます。6段め、7段めになり、ゆかりちゃんの動きが止まりました。太鼓橋の一番高いところは、ゆかりちゃんの身長をはるかに超えています。ゆかりちゃんの視界に入るのは、自分の身長をはるかに超えた地面です。「せんせい、おりれん」と蚊の泣くような声で助けを求めました。手足もふるえています。「こっちの足を放してひとつ下の棒に動かせるかな?」と声をかけても「できん」という返事でした。片手を放すこともできません。わたしはゆかりちゃんに声をかけました。「先生が抱えるからね」。ゆかりちゃんはわたしに抱えられると、すっと両手両足を放したのです。太鼓橋の頂上で、片手片足を放すことができないほど怖がっていたにもかかわらず、「先生が抱えるからね」と言ったわたしをゆかりちゃんは百パーセント信じてくれました。自分の身をゆだねて、安心して両手両足を放すことができたのです。
保育の現場では、子どもたちが先生を百パーセント信じています。家庭も同じでしょう。
百パーセント信じるということを、わたしは4歳のゆかりちゃんから学びました。(園長)

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