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バイブルエッセイ

ふりそそぐ主のまなざし

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。マタイによる福音書九章九節

徴税人マタイはいつものように通りの収税所に座って仕事をしていました。そこをイエス様がお通りになりました。マタイはイエス様のお姿にいつ、気づくでしょうか。

イエス様は直前の箇所で、中風の人を癒されました。自分で起き上がれない中風の人は、寝かされたまま友達にイエス様のところに連れて来られました。イエス様は中風の人に向かって「あなたの罪は赦される」という言葉で癒されましたから、律法学者の反感を買いました。「この男は神を冒涜している」。見ていた群衆は大騒ぎです。

この騒ぎですから、イエス様は大勢の群衆に取り囲まれながら通りを歩かれたことと思います。マタイはいつ、イエス様に気づくでしょうか。マタイはいつ、イエス様の方に顔を向けるでしょうか。

イエス様がこんなに近くに来てくださったのに、マタイは気づかないのです。気づいていても顔を向けなかったのかもしれません。マタイ自身にとって、イエス様は自分には関係がないと思ったのかもしれません。マタイは徴税人として自分が世間ではどう見られていたかをよく承知していました。自分の仕事は同胞に嫌われ、罪びととさげすまれている毎日。自分のことをだれかが心に留めてくれることは久しくなかったのかもしれません。

このマタイに転機が訪れました。イエス様のたったひとことでした。
「わたしに従いなさい」。
このイエス様のひとことで、マタイは人生が変わるのです。これまで何年と同じところに座っていたマタイは立ち上がってイエス様に従うのです。

同じところに座りっぱなし。それはマタイが自分の力で、今の現状をどうすることもできないとあきらめていた心をあらわしているかのようです。毎日同じことの繰り返し。だれからも声をかけられない。だれからも頼りにしてもらえない。だれからも自分の存在を喜んでもらえない。かたくなにしていたマタイの心のカギをイエス様が開けてくださいました。
「わたしに従いなさい」。

イエス様に従うということ、それは、今までマタイが自分の方にだけ向けていた心を、イエス様の方に向きを変えるということです。イエス様の方に心の向きを変えることを、マタイは自分の力でできませんでした。イエス様の方から心の向きを変えるように声をかけてくださいました。たった一言です。イエス様の一言には、マタイの生き方を変えるほどの大きな力、権威がありました。

続く十章三節には、十二弟子のひとりとして「徴税人のマタイ」が数えられています。マタイはほかの弟子たちと同じように、汚れた霊を負い出し、病気をいやす権能を授けられました。イエス様の教えを身近に聞き、奇跡を見るのです。

次にマタイの名前が聖書に登場するのは使徒言行録一章十三節です。マタイはイエス様の十字架の死と復活を目撃することになります。マタイもイエス様を裏切ったひとりでした。にもかかわらずマタイもイエス様のご復活、昇天、聖霊降臨を経験していくのです。 聖書は弟子としてのマタイの働きを詳しく記しません。けれどもイエス様の「罪のゆるし」の文脈で、マタイはイエス様のお声掛けによって立ち上がり、全く新しい生き方へと招かれた人として大事な位置に置かれています。

雑踏の中でイエス様から声をかけられるまで、徴税人マタイのそばを数多くの人々が通り過ぎたことでしょう。けれどもイエス様はマタイのそばを通り過ぎることはなさいませんでした。
「わたしに従いなさい」。
このイエス様のみ言葉をわたしたちも人生の途上で聞きました。わたしたちも心の向きをイエス様の方に変えるのです。わたしたちもイエス様の不思議な選びに与っています。
「前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。」(詩編一三九編五節)

刈谷・岡崎教会牧師 宮澤真理子

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