あなたがたに平和があるように
イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ルカによる福音書24・36)
弟子たちが主の復活を信じる信仰をもっていたのであれば、キリストは何度も復活の姿を弟子たちに見せるには及びませんでした。復活は人類の歴史上かつてない大きな出来事でしたから、弟子たちが復活を容易に信じることができなかったのも無理はありません。それにしても、弟子たちにご自分の復活を信じさせようとするキリストの努力は、並々ならぬものでした。
主イエスの復活を信じてエマオから引き返してきた2人の弟子と、エルサレムに残っていた弟子たちとが、互いに復活のイエスについて語り合っていると、イエスご自身が再び復活の姿を現されました。
そしてイエスは、弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちは恐れて幽霊だろうと思いました。イエスは、そんな弟子たちに、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と語られました。
それでもなお不思議がっている弟子たちに、イエスは「ここに何か食べ物があるか」と言われました。弟子が焼いた魚を一切れ差し出しますと、イエスはその魚を彼らの前で、いつものように食べられました。復活の体に、空腹を満たす必要はありません。焼魚を弟子たちの前で食べられたのは、復活を彼らに確信させるための、愛と憐れみの行為であったと思います。
ところで、使徒言行録9章3節以下には、パウロが回心へと導かれたときのことが記されています。「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウルは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」と、呼びかける声を聞きます。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」とあります。パウロは生前のイエスと生活を共にしていた、いわゆる弟子ではありません。しかし彼は、「イエス・キリストとキリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロから」と、ガラテヤの信徒に宛てて手紙を書きました。パウロに回心を迫った復活の主の言葉は、彼をキリストの迫害者から、キリストの全権大使とも言える使徒へと大きく方向転換させるほど、強いインパクトがありました。
主イエスを裏切ってしまった弟子たちからすれば、後ろめたい気持ちがあったはずです。それなのに、主イエスは「わたしはあなたがたに裏切られてとても悲しかった」とは言わないで、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださいました。この言葉がなかったら、弟子たちは不安な気持ちを持ったまま、一生を過ごさなければならなかったでしょう。良心がとがめるような心の状態で、福音を全世界の人々に伝えるために立ち上がることは出来なかったと思います。
「あなたがたに平和があるように」との言葉は、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」とパウロを回心させた言葉と同じように、弟子たち一人ひとりに、強い影響を与えた言葉でした。この言葉が彼らの心に生きて働くために、主イエスは何度も何度も復活の姿を弟子たちの前に現わし、自分の手足を見せ、魚を食べて、自分が復活したことを証明してくださいました。並々ならぬ、主イエスの努力です。わたしたちは、キリストご自身の証しを、素直に信じたいと思います。
「あなたがたに平和があるように」という言葉は、2千年前の弟子たちにだけ語られた言葉ではありません。歴史を通して、現在を生きているわたしたち一人ひとりに語られている言葉です。主イエスは今も、わたしたちの生活しているところに出かけて来て、日常茶飯事と思われるような平凡なことがらを通して、わたしたちに話しかけてくださいます。また、職場や家庭での色々な問題を通して、ご自分が復活されたことを示してくださいます。この主イエスに接するならば、わたしたちの心は穏やかにされるに違いありません。
キリストは、今も説教者や証し人や奉仕者を用いて、「あなたがたに平和があるように」と伝え続けておられます。皆さんお一人おひとりのうえに、主の平和がありますように。
日本福音ルーテル教会 牧師 木下 理