るうてる2014年10月号
説教「悲しみの預言者」
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
(エレミヤ書31・31~34)
私たちの人生には様々な局面があります。天災や人災によって、私たちのごく平凡な毎日さえ、一瞬にして破壊されることのある今日、神様の愛を信じ、示し続ける事は容易ではありません。しかし、信仰があるかないかで人生が大きく変わることを、聖書は示しています。
例えば、旧約聖書には、王と預言者という対決の図式があります。歴代の王たちは、国を守ろうとするあまり、結果的にしばしば神から離れてしまいます。このような彼らは、『信仰の確信が得られず迷いの多い人生を送る人々の代表』と見ることができます。一方、それに命がけで意見する預言者達は、『神に従おうとする人々の代表』と言えるでしょう。
神の言葉を真っ正直に取り次いだがゆえに、預言者たちは王や民から忌み嫌われるのですが、中でも、紀元前7世紀末から6世紀初頭にかけて活動したエレミヤは「悲しみの預言者」と呼ばれた人物でした。
エレミヤは、堕落した祖国に滅亡を告げるのですが、その内容があまりに恐ろしかったため、口を封じようとする人々によって、彼はたびたび命の危険に曝されました。
やがて祖国がエレミヤの預言通り敵国との戦いに破れ、神殿すら崩壊した時、エレミヤは一転して慰めの言葉を伝え始めました。人々が立ち直る気力も無いほど打ちのめされた時、神はエレミヤの口に希望の言葉を授けられたのです。
「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くして私を求めるなら、私に出会うであろう。」(エレミヤ29・12~14)
神はエレミヤを通してもう一つのお姿を現されました。それは掟を破れば罰が下るという、支配的で恐ろしい神のイメージではなく、涙を流しながら自分たちを罰し、愛を持って一人一人を正しい道に導こうとする父なる神の姿でした。
この愛の神の姿をさらに極限まで示してくださったのが私たちの主イエスです。イエスは命を捨てて神の真実を示してくださり、人々に愛されている信仰をしっかり持つように呼びかけられました。
イエスは自分を信じ、神の愛を受け入れた全ての人々に「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」(ヨハネ福音書8・31)と言われました。
世の中は、「神が居るなら、なぜこのような悲劇が起こるのか」という問いかけで満ちています。災いが起きるたび、「神など居ない!」という嘆きと叫びが響きます。
しかし、イエスの言葉にとどまると決心した私たちは、自分の感情に流されてはなりません。心の内に不信の嘆きや憤りが湧きあがろうとも、嘆き悲しむ人から厳しい言葉をぶつけられようとも、その苦しさ悲しさをイエスとともに受け止めるのです。イエスが十字架で血を流しながら示されたように「それでも神は愛だ」と踏みとどまるのが私たちの役目なのです。
世間から「何を虚しいことを」と蔑まれる時、私たちは「悲しみの預言者」です。しかし、それが私たち一人一人の役割であり、それぞれの地に置かれた教会の役目でもあります。悲しみを肯定する訳ではありませんが、人が生きる限り、地上から悲しみがなくなることはありません。ただ、悲しむ人に寄り添うことは私たちにも出来るのです。
神から離れた人々の傲慢さに警鐘を鳴らしつつ、個人的に関わる人々の悲しみをイエス・キリストにあって深く受け止めましょう。この10月は信仰にとどまる人としての自分を見つめ直す時にしたいと祈ります。
宗教改革五〇〇周年に向けてルターの意義を改めて考える(30)
ルター研究所所長 鈴木 浩
教会の歴史を振り返ってみると、論争が繰り返し起こっていたことが分かる。しかし、そうした論争は神学者の間での論争であったり、一部地域に限定された論争であったりしたことが多かった。
そうした中で、広範な地域で民衆まで巻き込む論争になった出来事が、二件あった。一六世紀以降の宗教改革と、七世紀から九世紀まで続いたイコン破壊論争である。宗教改革は西方教会全域に及び、イコン論争はビザンティン帝国全域に及んでいた。
ルターの場合、『九五箇条の提題』に先立って、はるかに重要な問題を提起していた『九七カ条の提題』を明らかにしていたのだが、ほとんど何の反響を引き起こさなかった。 理由は簡単である。『九七カ条』は高度な神学問題が主題だったが、『九五箇条』は、民衆が身近に接していた「贖宥状」を取り上げて、それを問題視していたからである。
イコン論争の場合には、ビザンティン帝国の民衆の家庭にまで浸透していたイコン崇拝を、皇帝が強圧的に禁止させようとしたからである。
どちらも、民衆にとっては「自分の問題」であった。宗教改革の拡大には、広範な民衆の支持という背景があったのだ。
議長室から
秋に想い、聖書に耽る
総会議長 立山忠浩
秋を想い、秋に耽る季節になりました。都心といえども、牧師館の周りにはたくさんのコオロギが住み着き、夜には賑やかな演奏会を繰り広げてくれています。小川のせせらぎなど、自然界の音は人間の耳には心地よい響きをもたらしてくれると言われますが、虫の音もこれと同じで、不思議と耳触りの良い音として聞こえて来るのです。
虫の音について、聖書がどう記しているか気になり調べてみました。意外にどこにもないのです。 主イエスの譬え話にもありません。空の鳥や草花を譬えられた説教は有名ですが、どこにもないのです。イスラエルを訪ねたことのない私には分かりませんが、四季折々の自然の豊かさに囲まれた日本とは随分と違うのかも知れません。虫の音に秋を想い、ここから聞こえて来る何かの声を感じて行く。これは日本に暮らす者にとっては、ごく自然な感性であり、感情であると思います。
あるインド人のカトリックの司祭は、蛙の鳴き声から神を讃美する声を聞き取ろうとしました。もしイエスがこの日本に地にいらしたら、虫の音を耳にしてどんな譬えを語られたであろうか。もしルターがここにいたら、どんな説教をするだろうか。このように想像を膨らますと楽しい思いになりますが、きっとイエスは、空の鳥や草花の譬えと同様に、虫の音を譬えながら、神を賛美することの大切さや、この世の思い煩いにとらわれることなく生きている自然な姿を讃えられたに違いありません。
虫の音に限りません。私たちの耳には、様々な音が届いているのですが、実は多くを聞き逃しているのです。騒音や不愉快な噂話など聞き逃した方が良い音もありますが、聞き逃していけない音もあるのです。助けを求める人々の叫びがあり、耳に届かない呻きの声もあることでしょう。自然界の音もそうだと思います。そして聖書も表層的な声だけを聞きとり、最も重要な本当の福音の音を聞き逃しているかも知れないのです。
秋に想い、そして聖書に耽る。これまで聞き逃していた様々な声や音に想いを馳せ、そして聖書に耽るのです。恵みに満ちた新しい福音の「音」が聞こえて来ることを期待しながら。
ルーテルこどもキャンプ報告
キャンプ長 伊藤節彦
8月7日~9日、「第16回ルーテルこどもキャンプ」が広島教会を会場に行われました。今年は全国から小学5・6年生のキャンパーたちが33名、スタッフも入れて総勢60名が共に「キリストの平和」について学びました。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(エフェソ4・3)を主題聖句に、69年前に実際に起きたヒロシマの出来事を学びながら、聖書が伝える平和とは何か、罪とはどういうことなのかを子どももスタッフも共に真剣に考える貴重な体験となりました。
8月は広島にとっては特別な月ですが、今年は異常気象が心に残った年となりました。8月6日の平和記念式典には43年ぶりに雨が降りましたし、ルーテルこどもキャンプも初めての雨天を経験。そして8月20日には大規模な土砂災害が発生しました。こどもキャンプは単なる平和学習ではありません。戦争の惨禍を心に刻むと同時に、キャンプで出会った仲間たちと一緒に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ということがどういうことなのかを考え、キリストのお心に触れる機会でもあると思います。歴史を見つめ、被災者の声なき声に耳をすまし、友の声に耳を傾ける。共に賛美し、共に学び、時に言葉にならないものに思いを馳せる3日間を過ごすことで、「共感」することや「想像」する力も養われたのではないでしょうか。
この学びは1回きりではなく、生涯にわたって続けられていくものです。その学びの中で、今回出会った仲間やスタッフたちが大きな支えとなってくれることでしょう。こどもキャンプは、この後ティーンズキャンプやTNGの各プログラムに引き継がれていくスタートに他なりません。信仰継承のまたとない機会として、これからも引き続きご支援くださいますようお願い致します。
最後に、キャンパーを送り出してくださった各教会、教区の皆様、そして素晴らしいスタッフの皆様に感謝!
宣教の取り組み「点訳教室ななほし会について」
前田司(神水教会)
日本福音ルーテル神水教会の「ななほし会」は、40年にわたり活動しています。今回で40回となる点訳教室を開催し、昨年だけでも100冊を越える点字本を作製し、熊本の盲学校(視覚特別支援学校)などに寄贈しています。
その働きのひとつとして、「ルーテル『聖書日課』を読む会」発行の「聖書日課」を、20年以上前から完全点訳し、全国の視覚障害をもつ信徒40数名に喜ばれています。一般購読者の皆さんと同額の購読料にて、毎日み言葉に接する機会を提供しています。
また、毎週の礼拝で使用される礼拝式文も、週ごとの特別の祈りも含めて点訳しています。視覚障害の信徒のために、各教会でお備えいただけたら幸いです。簡易製本で1500円、バインダー製本で2000円の実費で作製しています。注文をお受けします。
お問い合わせは、神水教会内「ななほし会」、電話096-369-0017(担当・前田)までお願いします。
書評「被災地に立つ寄り添いびと」(立野泰博著、キリスト新聞社)
小泉嗣(東教区社会部長)
私の前には2冊の書籍が置かれている。一つは先日出版された立野泰博牧師の「被災地に立つ寄り添いびと」、そしてもう一つは「東日本大震災ルーテル教会救援活動記録」。「記録」と「記憶」の書籍である。
「活動記録」はその題名の通り、ルーテル教会救援が取り組んだ東日本大震災に対する被災地支援の「記録(将来のために物事を書き記しておくこと。また、その書いたもの)」であり、その名の通り行ってきた支援の概要や課題等が記録され、また発生が予想される南海トラフ大地震対策も記されている。
対して立野師の「被災地に立つ寄り添いびと」は、立野師が被災地に出会い、被災地に寄り添い、祈り、考え、そして体験した「記憶(過去に体験したことや覚えたことを、忘れずに心にとめておくこと。また、その内容。)」が記される。そこにはまるで「活動記録」の記録と記録の間を埋めるように、被災地に寄り添う立野師が悩み、苦しみ、祈り、み言葉に問うた「記憶」が記されている。
その記憶は立野師が本文の中で「ルーテル教会救援活動の基本は『人と出会う』ということ」と語っているように、被災地で生きる人々との出会いの記憶でもある。それは先遣隊として2011年3月末から被災地に入り「となりびと」のスタッフとしての任を終えるまでの一年間に出会った数えきれないほどの被災者やボランティアとの出会いの記憶であり、涙を流し、憤り、苦悶した「記憶」であり、またみ言葉との出会いという「記憶」である。
「記憶」の積み重ねが「記録」であるとするならば本書もまた記録の書籍であると言えるのかもしれない、しかし、私はあえてこの書を「記憶」の書と位置付けたい。なぜならこの書は人との出会い、み言葉との出会いの書であるからである。そしてなにより、今なお被災地に足を運び支援を続けておられる立野師の「出会い」、「記憶」は現在も積み重ねられているのである。
東教区も本年7月より日本ルーテル教団と共に被災地支援「プロジェクト3・11」の活動を開始した、少しずつでも「出会い」と「記憶」を積み重ねていきたい。
礼拝式文の改訂
「招き」について
式文委員 中島康文
現行の式文は始まりを「開会の部」、終わりを「派遣の部」と説明します。あまりにも漠然とした区切りの言葉ですから、私は大雑把ですが「礼拝は『懺悔(罪の告白)』に始まり『祝福』で終わる」と説明してきました。礼拝の中心を説明した言葉ではありませんが、きっかけになるものと考えたからです。 しかしこの説明では誤解を招く心配もあります。つまり「礼拝は懺悔から始まる」と。確かに、懺悔は始まりの要素として重要ですが、始まりではありませんし、礼拝の準備行為として礼拝式の外に置かれてきた歴史もあります。また、現行式文においても「開会の部」には「初めの歌(入祭頌)からキリエ、グロリアまで」豊かな要素が沢山あるのです。
式文委員会では、「始まり」に含まれる項目を、時間をかけて検討してきました。特に「罪の告白」の言葉については、信仰と職制委員会より答申された検討の課題(2006年6月10日付)を中心に議論しました。議論を重ねる中で、「東日本大震災」に遭遇し、私たちの有り様を具体的に表現することを痛感し「無関心」という言葉も選択しました。その上で、礼拝の始まりを表現する言葉として何が相応しいかを考えました。
「罪の告白=懺悔」は礼拝の始まりではないと前述しましたが、そのことはまた礼拝出席の可否の条件でもありません。しかしながら「キリスト者の一生は心を入れ替え、自己の罪を憎むものである」とルターが言うように、悔い改めが大切なことは言うまでもありません。その悔い改めに私たちが導かれるのは、聖霊の働きによってです。アウグスブルク信仰告白第17条に「人間は、聖霊の恵みや助力、その働きによらないで、神に受け入れられ、心から神を畏れ、信じ、また心の中から生来の悪い欲望を取り除くことはできない。むしろそのようなことは、神のみことばを通して与えられる聖霊によって起こるのである」とあることからも理解できます。礼拝の始まりを、アメリカでは「Gather」と表現されていますが、「集い、共に集う」では状態が強調されているだけのように感じられます。むしろ「神の招き」によって礼拝に集っていることを覚え、礼拝の始まりには、「神の招きが聖霊によって私たちにもたらされることが不可欠である」ことと受け止め、「招き」としました。
最後になりますが、この「招き」は全ての人に、すなわち洗礼の有無、信仰生活の長短に関わらず与えられています。「招き」への応答が、「礼拝への出席、罪の告白、赦しの求め、福音に与る」等の行いとなります。また、礼拝の終わりに祝福を受け派遣された私たちは、一週間の歩みの後に再び「招き」をいただくという、恵みの循環の中で日々を過ごしていくのです。
招かれて、神様のサービスをいただきに、主の日に教会へお出かけください。
礼拝全体を検討し見直すために設置された式文委員会の働き「式文改訂」について、日本ルーテル教団と共に、その解説をお届けします。
「死刑制度に関する答申」その要旨及び解説
前期(第25期)信仰と職制委員長 江藤直純
2009年に裁判員制度が導入されたときにその総会期の「信仰と職制委員会」は、信徒・牧師は「信仰の良心に従って、一人ひとりの判断で裁判員になることを受けることも拒否することもできる」旨見解を示しました。そのとき合わせて諮問されていた「死刑制度」について時間が空きましたが、去る6月の常議員会に答申し、受理されました。全文は議事録やホームページに公表されています。以下、その要旨を紹介し、解説します。
1.死刑制度について
(1)現状
①日本であまり取り上げられていませんが、死刑制度の廃止は世界的潮流です。1989年の国連の議定書採択以後、今日では欧米先進諸国では日本とアメリカを除き、執行猶予・差し止めを含め「事実上死刑を廃止している国」は139ヶ国、世界の3分の2を超えています。この傾向の根底にあるのは、あらゆる人間に対して保証されるべき基本的人権の思想です。
②しかし、日本では特に被害者感情が強調され、世論調査は国民の8割超が死刑制度を支持しています。
(2)死刑存置
①極刑による犯罪の抑止、被害者およびその家族への償いと救済、被害者への同情と犯罪者への怒りの民意ヘの対応などが存置の理由に挙げられてきました。
②しかし、死刑廃止によって犯罪が急増したという結果はみられませんし、被害者感情が強調されますが、遺族は死刑執行で本当に癒されるのか、彼らの望みは一様ではないのではないかと、存置への疑問も出されています。被害者側に保証されなければならないことも、また犯罪の背景、加害者の人権やその家族の苦しみもさらに取り上げられる必要があります。
③さらに、冤罪だった場合には取り返しがつかないことも指摘されています。1980年代に4件、2010年以降だけでも4名の死刑囚が再審無罪となった例があります。
④死刑判決や執行に関わる者への過度の負担も見過ごされてはならないでしょう。
(3)聖書的理解
①聖書は神のことばでありかつ歴史的書物ですから、死刑制度についての直接の回答を引き出すことは慎重にしながらも、キリストによって示された福音理解と人間に対する神の愛の眼差しから、聖書に支えられつつ、以下の点を確認しました。
②私たちの命は、基本的に神の領域に属しているものです。人間がこの命を勝手に扱い、殺すことは許されていません。
③キリストが赦しへと招いてくださっています。復讐は神に委ねるべきことです。死刑のような報復的な処置は私たち自身の手には任されてはいません。
④現実的に、この世の秩序をたてる国家とその権威とは認められていますが、それも人間の手によるものである以上、権力が過ちを犯すことへの警戒をもっていなければなりません。
⑤そして、どのような場合にも、悔い改めの機会を奪ってはならないのです。
(4)結論
以上の検討から、①委員会は死刑制度について反対の立場に立ち、制度廃止に向けた取り組みが必要と考えます。
②裁判による刑罰は応報的でなく、罪を犯した者にも基本的人権を認め、悔い改めと償いの生涯を生きる道を奪うべきではないと考えます。
③死刑をなくしたときの社会の秩序と安全のための現実的対応として「仮釈放の許されない無期刑」(いわゆる終身刑)の創設と、「被害者及び被害者家族に対する具体的な癒しの手立てとして必要とされる支援の仕組み」を作ることを必要だと考えます。
2、裁判員候補に選ばれた場合の対応
①裁判員になって自分の信じるところを述べることは大切です。
②ただし、絶対に死刑反対という者は選ばれない可能性もありますから、多数決の判断に一定の傾きが生じることもありえるでしょう。
③もしも死刑制度そのものに反対の場合は、それを明確に示し、選ばれないようにするという対応もありえるでしょう。
④もちろん、裁判員となってその任を負う選択も尊重されるべきです。
死刑制度そのものについて、様々な立場の考え方があり、議論が続けられていることを承知しています。その上で、今回の答申が社会に責任を持って関わるキリスト者として、秩序を保ちつつ、新しい世界を造っていくための学びの素材となることを願っています。
●電話番号変更
聖パウロ教会
電話・FAX共用
03(3634)7867
田中良浩牧師(定年教師)
電話
03(6318)7278
●メールアドレス変更
岡山教会okayama.lutheran@gmail.com
東海教区ティーンズサマーキャンプ 報告
中村朝美(東海教区青年伝道顧問)
東海教区では毎年夏にティーンズを対象とした1、2泊のキャンプが行われてきました。数年来、参加者が少なくなっているのが実情です。それに対して「春キャン」(春の全国ティーンズキャンプ)には東海教区からも多くのティーンズが参加し、リピーターもたくさんいます。その参加者が夏にも集まれないかということで、「春キャン」のリユニオン(同窓会・親睦会)としてデイキャンプを計画しました。
ティーンズは夏休みに入るとすぐに連日の部活動です。特にスポーツ部に属している子どもたちは試合に勝ち進んでいくと8月に入ってもそれが続きます。それでお盆休みはどうかということで8月16日(土)に設定し、場所も名古屋駅からも地下鉄で行ける「なごや希望教会今池礼拝所」としました。
参加者は、ティーンズと異なる年代の元ティーンズの計6名でした。
テーマは「ノアの物語」。プログラムは12時の開会礼拝から始まり、昼食は奮発して「ビーフカレー」と果物。その後、聖書の学び、賛美とおやつタイム、そして分かち合い、閉会の祈りをもって17時で解散としました。
私が主に学びの部分を担当し、朝比奈晴朗牧師と教区常議員の末竹十大牧師がギター、そしてカホン、マラカスなどでの賛美を楽しみました。今回、今池礼拝所の牧師館に小さなスタジオがあることが判明しました。
閉会の祈りの後、スタジオに移動。教会員さんの持ち物ということですが、ドラムセットやギター、ベースギター、カホンなどがあって皆の目が輝きました。名古屋周辺のティーンズは2、3カ月に1度位は集まれるのではないか・・という声も上がりました。
今回、受験や体調不良などの事情で人数は少なかったのですが、夏キャン、秋キャン、冬キャンを計画していきたいと考えています。定着していくには時間がかかるかもしれません。けれども「春キャン」の参加者を青年会へとつなげてゆく上で大切なことだと考えています。
るうてる法人会連合第3回全体研修会 報告
内村公春(現地実行委員長、慈愛園 理事長)
るうてる法人会連合第3回全体研修会は、”「ミッションに生きる」~私たちの働きは、何を目指すのか、どう実現していくのか~”という主題のもと、8月25日と26日の2日間にわたって、九州学院を会場に行われた。参加者は、1日目約120名、2日目約70名であった。
1日目は、まず立山忠浩総会議長の「賢く、しかし素直になりなさい」という奨励題での開会礼拝より始まった。講演Ⅰは、学校法人アイオナ学園長でキリスト教保育連盟前理事長である原和夫先生が、今回の研修会主題と同じく「ミッションに生きる」という講演題で話された。
先生の豊富な経験をもとに、私たちが神さまよりミッションを与えられていること、つまり「神の大切な働きの場に相応しい人として召しだされている」からこそ、「いのちを輝かせて生きる子どもと共に輝いて生きる」働きであって欲しい。様々な問題を抱える現代社会だからこそ、「見えないものに目を注ぐ」こと、「見えない神の存在、愛」を感じ取り、「癒しのある」働きであって欲しい。このことは、「子どもを愛する能力をもつ人を育て、他人のために思いやりが持てる人を育て、信頼の心を持つ人、自律した人を育てることにつながる意義深い」働きであることを確信すべきであると述べられた。まさに出席者の心に沁み通る講演だった。
1日目の後半は、「教会との関わり」について、それぞれの法人会からの実践報告があった。字数の関係で紹介できないが、どれも素晴らしい発表であった。1日目の最後にルーテル学院大学の市川一宏先生より、喫緊な問題である「社会福祉法人改革・新しい社会福祉の動向」について報告があった。その夜は、会場を変え楽しい交流のひと時をもった。
2日目は、5つの分団に別れ、主題講演について、それぞれの働きの場の問題等について協議を行った。どの分団とも活発な意見交換が行われた。
講演Ⅱは、「われここに立つ-ルターと現代」という題で、NPOコミュニティカレッジ理事長である内村公義先生よりの話を聞いた。われわれルーテルグループの原点であるルター、特に青年ルターのスピリチュアルペインと呼ぶ苦しみ、「否定すべき存在」、「罪人としての存在」である絶望感から、「私はもう罪人であるよりほかはない」という180度の転換としての「神の義の再発見」の意味、「われここに立つという宣言」の持つ意味について辿り、このことは、現代の多くの若者たちの苦しみ、自分自身の存在の否定ともいうべきものと重なりあうのではないかということについて、不登校生や大学生との関わりを通して述べられた。
最後に、神水教会牧師である角本浩先生による、「与えられた恵みによって」という奨励題での閉会礼拝をもって、この研修会を終了した。
今回も、あらためて私たちに与えられた「ミッション」について深く学ぶことができ、参加者にとり充実した研修会となった。
宗教改革500年記念事業シンボルマーク募集
マルティン・ルターによる宗教改革運動は1517年10月31日に始まり、2017年には「宗教改革500年」を迎えます。
日本福音ルーテル教会でも、様々な記念企画がなされており、今後、広く社会の注目を集め、親しんでいただけるような、本事業のシンボルマークを募集します。
●募集要項(詳細は必ず公式HPで確認ください)
1.募集内容
宗教改革500年記念事業 シンボルマーク
①マルティン・ルターによる宗教改革と500年の歴 史的経過がイメージできること
②キリスト教会の伝統や品位が感じられること
③「1517―2017 マルティン・ルター 宗教改革500年」 の文字をマークと含めてデザインすること
④単色加工また、縮小拡大 加工にも対応できること
⑤自作の未発表作品に限る
2.日程
応募締切 2014年10月 31日必着
3.応募方法
提出物(作品とその解説 住所、氏名、電話番号)を提 出先まで郵送・持参・ もし くはメールにて送付
4.賞
優秀賞1名
賞金500ユーロ
5.提出先・問合先
〒162l0842東京都 新宿区市谷砂士原町1l1
日本福音ルーテル教会
宗教改革500年
シンボルマーク募集係」 メール koho@jelc.or.jp
6.結果発表
2014年11月27日
受賞者本人へ連絡
7.公式ホームページ https://jelc.or.jp/
bosyu.html
公 告
この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。
2014年10月15日
宗教法人
日本福音ルーテル教会
代表役員 立山忠浩
信徒利害関係人 各位
①挙母教会土地無償貸与
・所在地 豊田市桜町1丁目
・所有者 日本福音ルーテル 教会
地番 74番1
地目 宅地
地積 202・76㎡
地番 74番2
地目 宅地
地積 18・14㎡
地番 74番9
地目 宅地
地籍 31・23㎡
地番 78番1
地目 宅地
地積 185・19㎡
・理由 学校法人愛知ルーテル学院「挙母ルーテル幼稚園」の 園舎新築のために土地を無償貸与する。貸与期間は契約締結日から10年間とする。
②挙母教会元町礼拝堂無償譲渡
・所在地 豊田市柿本町5丁 目31番1
・所有者 日本福音ルーテル 教会
家屋番号 31番地1
種 類 礼拝堂
構 造 木造瓦スレート葺 平屋建
床面積 109・30㎡
・理由 社会福祉法人オンリーワンへの用地売却(公告済み) に伴い、建物を無償譲渡するため。