るうてる《福音版》2007年1月号
バイブルエッセイ 「うれしい日の出」
むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです
1ペトロ4章13節(日本聖書協会・新共同訳)
新しい年を迎えました。元日の朝に見る日の出の光ほど、うれしく・神々しく感じるのはなぜなのでしょう。広い宇宙から見れば、日々繰り返されているいつもと変わらない日の出なのに。
それは、もしかしたらそれまで送ってきた一年間の中で無駄に過ごしてしまった時間、また、色々あった出来事の内の悲しいことや辛いことなど……。自分にとってマイナスと思っていた事柄の全てをも、「意味ある経験だった」という確信に変え、そこに新しい希望を与えてくれる光だからかもしれません。大晦日の夜の闇を通ってやってきた光には、不思議な力が潜んでいるように思えます。
一昨年の夏ごろから、年齢的なことが原因してか体に変調が見られるようになりました。常に頭がぼんやりした状態の中、最初の変調は光に対してでした。家の中に居ても昼間の光が眩しくて仕方がなく、洗面所などの暗い部屋にこもる日々が続きました。そして、それが過ぎると今度は匂いです。いつも使っているシャンプーや石鹸、食器洗剤などのあらゆる人工的なにおいが受け付けられなくなり、買っては買い替える……の繰り返し。結局、行き着いたところは、無香料・無添加の天然成分からなる製品でした。そして、次なる変調は味です。何も入れていないのに口の中にいつも酸っぱい感じが広がっていて、それ以上酸っぱくなるのを拒んでか、好きだったお漬物が口にできなくなりました。そして、この原稿を書いている今は、音です。街中に流れるアナウンスやテレビコマーシャルなど、こちらが必要としていない音のすべてが、攻撃的な騒音となって頭に響いて来るのです。
そんなこんなの不思議な感覚の世界を今では楽しんでいますが、変調が起きた当初、「一体、自分はどうなってしまうのかしら……」という不安に陥りました。
そして、その様なときある一冊の絵本と出会いました。それは、一匹のはりねずみが野いちごの蜂蜜煮を持って友達のこぐまの家へ出掛けるのですが、森の中にある家までは、深い霧につつまれた夜道を歩いて行かなければなりません。途中、木の葉の音に脅えたり大きな樫の木に驚いたり……色々なものに遭遇して何度も怖い体験をするのですが、森の仲間たちに助けられながら、最後、霧の奥に明かりの灯った家を見つけ無事にこぐまに会える、というのです。これを読んだ瞬間、「深い霧の中を不安な気持ちで歩いているはりねずみは、まさに今の自分だ!」という思いで一杯になり、「今の私の体と感覚は朦朧(モウロウ)としているけれど、いつかこの霧から切り抜けて、私の前にも希望の明かりが差し込んでくる……」と、勇気づけられたのでした。
新しい年の初めの朝に迎える太陽の光がまぶしく輝いて見えるのも、過ぎ去った年の暗い夜を通ってきたからこそであり、悲しみや辛いことの後には、必ず喜びや嬉しいことが待っているのです。そして、最も大変なとき……それは、喜びがすぐそこにまで来ていることの知らせなのです。古い年は過ぎ去った! 新しいこの年を、たくさんのあふれる希望を持って迎えましょう!
JUN
心の旅を見つめて
より寛やかな人間理解を
若い人たちと話ができない
年配者から若い人たちとなかなか話が出来ないとか通じないという、時として不満の伴った呟きを聞くことがあります。自分の子どもたちがあまり話をしてくれない、手紙や電話もくれないと嘆いている親たちも少なくありません。会社などでも若者の多くが上司たちとの付き合いは面倒臭いと思っているようです。話し合うようなことがあるにしても、多くは仕事や生活のために必要だからそうしているというような関係ではないかと思います。
このようなコミュニケーションを巡る問題は核家族・少子高齢化に伴い、これからもっと深刻になっていくのではないでしょうか。こんな話を聞いたことがあります。大学3年生が友人たちと「今の若い子たちの気持ちが分からない」と嘆いていたという話。その「若い子」とは誰のことかと言いますと、後輩の1、2年生たちのことだったそうです。少々極端な例ですが若者の間ですらこうなのです。いかに社会変化が早いかを物語っています。
戸惑う世代間ギャップ
このような話を聞くと、高齢者は絶望的な気持ちになるかも知れません。こうなると、ある人たちは開き直ったかのように「今の若者は……」と自分たちの身に付けてきた価値観や物の考え方を子どもたちに教え込もうとします。これではますます年寄りは理解不能な存在になってしまいます。他の人たちはこれではいけないと考え、ITやファッションなど、若者文化を取り入れたりして話題に乗り遅れないように頑張っています。
しかし、そのようにしても世代間ギャップ(generation gap)は家庭(親と子)にも学校(教師と生徒)・職場(上司と部下)にも存在します。これは現代固有の問題ではなくいつの時代にもあったのです。「今の若者は……」というのは世の習いです。ただ現代の難しさは若者文化を中心に社会が急速に変化していますから大人たちがコミュニケーションに戸惑うということなのです。
コミュニケーションは可能に
では、どうすれば大人たちは成人した子どもや若者たちと共に歩むことができるのでしょうか。これは真剣に考える必要がある課題です。T・ボヴェー(チューリッヒ大学)は『家庭生活の喜び』の中で、こんなことを述べています。
「老人が主張してよい老人独特の知恵は、より大きな温和さ、より寛やかな人間理解にあるのであって、決してより大きな厳格さや、個々の機会にいちいち口出しすることにあるのではない、ということです。老人が自分の老齢を認めて、若い人たちの領分にまざろうとさえしなければ、若い人々もまたこの老齢を受け入れ、尊敬するでしょう。……親が子どもたちの生活圏に侵入していかない時にのみ、親は成人した子供から〈尊敬〉を期待できます」。
ボヴェーが指摘しているように、親たちのあるべき態度は「より大きな温和さ、より寛やかな人間理解」といったものです。こういうものを若い人たちは求めているのです。厳しい競争社会の中に置かれている彼らが必要としている心の世界です。こうした温かな世界を提供するならば、子どもや若者たちは年配者と話すことに抵抗はなく、お互いの生きてきた時代や文化が異なっていても良きコミュニケーションができるようになるのではないでしょうか。
堀 肇(ほり はじめ)/鶴瀬恵みキリスト教会牧師・ルーテル学院大学非常勤講師・臨床パストラルカウンセラー(PCCAJ認定)
HeQiアート
イエスの洗礼
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
ルカによる福音書 3章21~22節
Nativity by He Qi, www.heqiarts.com
たろこままの子育てブログ
番外編「怒る時」
だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。(ヤコブの手紙1章19節)
昨年末さようならのご挨拶をしたと思ったら、即再び登場で少々バツの悪いたろこままです。嬉しいお声がけで、とりあえず3月までこのコラムを続投させて頂くことになりました(多分バトンタッチする方を探している最中でしょうな~笑)、斯様な事情をご了承くださいまし。
さてさて、1年間あれだけエラそうに愛だの希望だのについて語ってきた、たろこまま。うっかり読み通した読者の中には、当方をさぞかし清廉潔白で信仰深い人と勘違いされている方もいらっしゃるかと思い(いないか)、今日はその誤解を解くべく懺悔(?)を一発かましたいと思います。
皆さんは夫婦喧嘩をなさったことがありますか? 私は夫婦2人の時は控えめだったものの、子どもが生まれてから真剣かつ強烈なバトルをしております。理由は至極簡単。予測不可能に近い小太郎にまつわることで、いざこざが生じるからなのです。
でも我が家一体が小さい子どもに振り回される結果は甚大で、私が脳に抱える地雷を発症したのも、このセイでした。
「カレンダーにも予定を書いて、出かけにも口頭で伝えたにも関わらず、どうしてこんなに帰りが遅いんじゃ~!」呑気に予定より2日(2時間ではありません!)も遅く帰宅した父ちゃんは、フライパンで殴られてボッコボコ。ええ……落ち着いているときには冒頭の句を読むと心が痛むんですけどね(しみじみ)。
冒頭の句は「怒るのに遅いように“しなさい”」であって「でなければならぬ」じゃないもんね、と言い訳しつつ、我が家は鬼ヨメの尻の陰で今日も回っている次第でして、ハイ。
理想をあげればキリがなく、自堕落しても限りなしな中、私もほどほどのもう一歩を目指す普通のオバさんなのでした……あ、紙面からはフライパンは飛び出さないので、皆さん逃げないでくださいね(笑)