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るうてる2006年

るうてる《福音版》2006年7月号

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バイブルエッセイ「前から後ろから」

 主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いてくださる。
詩編 139編1節、5節(日本聖書協会・新共同訳)

いつの頃からか、金魚物(きんぎょもの・著者の造語)を集めるようになりました。それは、お風呂で浮かべて遊ぶ玩具から始まって、暑中見舞いの絵はがき、浴衣地など――金魚の形をした物や絵柄の入ったものなら何でも――。本物も飼ってみたいのですが、命あるものをいい加減には扱えず、今のところはペットショップでその姿を楽しんでいます。
金魚に興味を持ち始めたのは、幼い頃に見た7円切手がきっかけです。黄緑色の背景に朱色の金魚の図柄は、私の中でずっと可愛らしい印象として残っていました。ご存知のように日本の風物詩になっている金魚は、夏になると多く見られます。そして、日本人の多くがメダカでもなくフナでもなく、なぜ金魚を好んで生活の中に取り入れているのかを知りたくなって集め始めたのが、先の金魚物です。あるときデパートで開催されていた中国展にたまたま足を運んでみたところ、絵画・切り紙・置物などいろいろな分野で金魚が作品になっているのに出会いました。そして、中国では金魚は昔から縁起物として人々に好まれていることも知りました。

そうこうして集まった金魚物を一堂に並べて眺めていたら、二つのことに気がつきました。それは、中国製の物は金魚を上から見てその形を捉えたものが多く、それに対して日本の物は、横から見て特徴を捉えているものが多いということです。そして、面白いことに飼育のための専用容器も、中国では金魚を上から見るように平たく底の浅い陶製の水盤から始まったのに対して、日本はガラス製の丸い小さな容器から始まっていました。これは金魚を横から――それもレンズ効果でより大きく見えるように、と出来ているのです。ところが、このように中国と日本で金魚を見る角度は違っていても、捉えたかった特徴はどちらも同じ尾びれだったのです。金魚が泳ぐときに見せる尾びれの優雅な舞いを、人々は長年美しいと思い愛でてきたのです。私にとって、これは大きな発見でした。

 日々の生活の中で人と接するときに、私たちはその人のことを正しく見ているでしょうか? 最初の印象だけでその人の全体をとらえた気になったり、またその人への信用の持ち方を決めてしまったり、ということは少なからずあります。そして、その人と関わっていくうちに自分の間違った見方に気が付いていくのも事実です。正しい見方であれば、いつでも状況は変わりません。正しく見られるまでには、もしかしたら人生経験が必要なのかもしれません。
神様は、私たちのことをいつも変わらない思いでとらえてくださいます。そして、私たちがどんなにつらい時も悲しい時も、前から後ろから、そして上からも横からもその手で私たちをおおって守っていてくださるのです。ですから、私たちは安心して、毎日を過ごしていくことができるのです。
JUN

心の旅を見つめて  堀 肇

「温かく「春」を見守る」


陥りやすい干渉的な態度

この時代の子育てにおいて親が最も悩むのは、思春期・青年期に入った子どもたちへの関わり方ではないかと思います。親は自分たちの若い頃と比較して何となく頼りなく見える子どもたちに対して、つい大人の常識にしたがって説教がましいことを言って嫌われるということがあります。
 たとえば中学3年の夏頃になって、それまで特に問題なく受験勉強をしていたわが子から「お母さん。どうして高校に行かなくてはならないの」などと言われたら、どのように答えるでしょうか。多くの場合、「あなた。今頃になって何を言ってるの。今は高校に行くのが普通でしょう。そんな事を考えている暇があったら少しでも勉強しなさい」などと言いかねません。
 また友だち関係でくよくよ悩んでいるような時なども、悩みに耳を傾けるというよりも「あなたのそういうはっきりしない態度がだめなのよ。こうしたら……」と干渉的になってしまうことがあるのではないでしょうか。
心の宿題を抱えての思春期
しかし、このような大人からみれば何とも歯切れの悪い質問や悩みというものを面倒がらず、丁寧に聞いてあげたいのです。というのは現代は世代間の価値観や物の考え方のギャップが著しいだけでなく、若い人たちにはとても生きづらい時代となっているからです。
 そもそも思春期・青年期というのは程度の差はあるものの、みなそれなりの心理的危機を経て自分らしさを形成していく時期です。言い換えると自分とは何か、どこから来てどこに行くのかという問いを抱え、迷いながら揺れながら自分自身と折り合いをつけなければならない苦しい「季節」でもあるのです。
 そのような青年期一般の苦悩に加え、この時代の若者たちの多くは、幼少期に自分を愛し受け入れることが難しい環境(家庭や学校)に置かれてきたためでしょうか、自分に対する自信が乏しく、従って他者に対する生き生きとした対人感情も持てないという課題を抱えているのです。これは心に宿題が残っていて先に進めないような状態といっていいかもしれません。
温かな気持ちをもって待つ
厄介なことに、こうした心理的課題は外からは見えにくいのです。子どもたちは「いい子・いい人」を演じていると言っていいでしょうか、というよりもそうしないと周囲に受け入れてもらえないため、自分の願望や感情を抑圧し、人知れず「春」とは言えない、つらい春を過ごしている人が多いのです。
しばらく前、青年のキャンプでメッセージをさせていただいた時のことです。集会は若者らしく熱気のあるものでしたが、集会後のカウンセリングの時間になると明るく元気に歌っていた人たちが次々とやってきて、親子関係や人間関係の悩みを涙ながらに話すのです。キャンプという場にしては自傷行為や摂食障害の相談が多いのは驚きでした。青年期の普通の悩みを風邪に譬えるならこうした悩みは肺炎に近い症状と言っていいかもしれません。
臨床経験からも言えることですが、現代のいわゆる思春期問題は単なる家庭や学校の問題でなく社会の病理を背景にしていますから、解決には、それなりの時間を与えてあげる必要があるのではないかと思います。少々はがゆく見えても温かい気持ちを持って待ってあげてほしいのです。そうすれば心の宿題は次第にクリアされていくのではないでしょうか。「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。……神を待ち望め」
(詩編42編12節・新改訳)

HeQiアート

Ark of Noah , by He Qi, www.heqiarts.com

「ノアの箱舟」

  更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。
 ……「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」
創世記 6章~9章

たろこままの子育てブログ

「見上げるとき」

空の鳥をよく見なさい。(マタイによる福音書 6章26節)

 北海道も少しずつ暑くなってきました、皆さんお元気ですか?
 夏休みというと、私が子どもの頃は毎日ラジオ体操に通わされ、日の高いうちは男女問わず近所の野山で虫取りに明け暮れるという天然な生活を送っていたものですが、最近の夏休み事情はこんな今は昔な田舎のものとはかなり異なるようですね。
 子どもたちは通信簿を親に渡した翌日から、塾や家庭教師とお勉強をするのが当たり前のように言われてビックリしました(遅いですか?)。一方のお母さんも、「もし成績がこれだけ上がったら、ゲームを買ってあげる」みたいな交換条件で、子どもの学習意欲を上手に駆け引き(?)する人もいると聞いて、これまたたまげてしまいました。
 私は冒頭の句がとても好きです。子どもが生まれる前からも好きでしたが───小太郎が生まれてから、なお好きになりました。
 この句を読んでどうぞあなたも想像なさって下さい。
 野生の鳥たちは私たち人間の思惑通りになんかちっとも動かないし、人間がするように種を蒔いたり刈り入れをしたり、それを保存したりもしないけれど、青く広い空をとても堂々と飛んでいます。
 当然学校の成績やテストの点数、足の速さや運動能力になど左右されません。日頃「もし**だったら? してあげる」と前提条件の多い私たち親には耳の痛いところではありますけれども(苦笑)、「いる」だけ、その存在だけですべて「ヨシ!」とされているのです。
 「空の鳥」とセットで「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」とも書かれています。
 皆さんも夏休みどこかお出かけの予定がありましたら、どうぞそのような中で空を見上げたり、草原を見渡したりしてみて下さい。自然は、教科書のように文字で私たちに何かを伝える訳ではないけれど、そのすべてがきらきらと無言のうちにも語りかけてくれるはずです。

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