1. HOME
  2. ブログ
  3. バイブルエッセイ
  4. 幸せの方程式

刊行物

BLOG

バイブルエッセイ

幸せの方程式

『祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている〝霊〟について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、〝霊〟がまだ降っていなかったからである。』
(ヨハネによる福音書7章37~39節)

主の聖霊降臨を、心よりお喜び申し上げます。

『見ているだけで/何も描けずに/一日が終わった/そういう日と/大きな事をやりとげた日と/同じ価値を見いだせる/心になりたい』
これは星野富弘さんの作品です。どのような状況にあっても、すべてが神様の祝福として、また恵みとして受け止めたいという星野さんの信仰が伝わって来ます。

ペンテコステ(聖霊降臨)を境に、イエスの弟子たちは、雨が降っても風が吹いても、すべてが神様の祝福として、同じ価値を見出せる心を持って歩み始めました。
このペンテコステについては、使徒言行録の二章で、一同が集まっているとき、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人ひとりの上に留まった。そのときみんなは聖霊に満たされ、異なるさまざまの言語を持つ人々の言葉の壁を越え、意志疎通が出来たと記されています。その霊というのが、本日の聖書の「イエスを信じる人々が受けようとしている『霊』」のことであり、思想、民族を越えてイエスを信じる者から、「生きた水が川となって流れ出る」と言われることなのです。

ところで、イエスが、「……その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」という言葉を発した背景ですが、聖書には、祭の終わりの日とあります。この祭とは、仮庵祭と呼ばれるイスラエルの三大祭のひとつで、ぶどう、いちじくなどの秋の収穫を感謝する祭りです。またイスラエルの暦では、年末に当たり、新しい年も豊かな年であることを祈るもので、間もなくやって来る雨季に際して雨が多くもたらされることを祈願したのでした。ゼカリヤ書一四章一六~一七節には、仮庵祭を祝うのに、エルサレムに上って来ない者には、雨が与えられないとまで言われています。ですから、仮庵祭は、ユダヤ人にとって水をもたらす特別の意味を持っていたのです。
かつて、モーセに率いられたイスラエルの民が、「なぜ、我々をエジプトから導き出したのか。わたしも子供たちも、渇きで殺すためではないのか」と、モーセに迫った時、主の示されたホレブの岩を杖で打つと、そこから水が出てイスラエルの民は救われたことがありました。以来、イスラエルの民にとっての水は、まさに主から与えられたものであり、どのような状況に置かれても主は導き、命である水を与えられるという確かさとなりました。その彼らに、今、イエスは、「生きた水」、それもただの「水」ではなく、あえて「生きた水」が流れると言われるのです。
また、イエスがサマリアの町に来られた時のことです。丁度昼時で、イエスは旅に疲れ、ヤコブの井戸のそばに座っていました。そこに水を汲みにサマリアの女が来ました。喉が渇いていたイエスは彼女に水を一杯飲ませて欲しいと願ったことがありました。そして、ヤコブの井戸の水を飲む者はだれでもまた渇くが、イエスご自身が与える水を飲む者は決して渇くことはなく、「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました。イエスが、「生きた水」と言われるのは、それはとりもなおさず、「永遠の命にいたる水」なのです。
そして、ここで大切なのは、「生きた水」と「信じる」が、一つになっているということです。イエスを信じることをとおしてのみ生きた水が私たちに与えられるということです。水は絶え間なく流れていなければ澱んできますし、腐ってしまうことになります。しかし、イエスを信じるということと結びついて初めて「生きた水」となるのです。イエスが共にいてくださることによって、「生きた水」となるのです。

人はしばしば、幸せになる人生の方程式があればと願います。もしそうならば、どのような状況に置かれても、その方程式どおりにすれば、幸せになれるはずです。星野富弘さんの冒頭の詩のように、自分が受け入れ難い季節を迎えても、それは神様がそなえて下さったこととして、受け入れ、すべてを神さまに任せる、これが幸せの方程式と言えましょう。弟子たちがすべてを信じ、すべてを委ねて歩み始めたのが、ペンテコステ(聖霊降臨)です。この日、イエスの弟子たちに、「聖霊」が与えられたのです。そして、新たに聖霊をとおして、「生きた水」が流れ出るようになったのです。ご一緒に、聖霊の導きを覚えつつ感謝をもって、過ごしてまいりましょう。
蒲田教会牧師           渡邉純幸

関連記事