希望
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。コリントの信徒への手紙一13章13節
定年を控えて振り返ると、私は高校3年生の春に洗礼を受けました。家庭の事情により心の中に空しさがあり、イエス・キリストに従う生き方に希望を見出したからです。洗礼を受けた頃は昂揚感に包まれ、楽しかったのですが、年を取るにつれ、別の空洞があるのに気づきました。早い話、自分が悪いのに、あなたが悪いと人を傷つけて、その事に気づかない浅はかさ。想うべきでない事を喜んで想い、為すべきでない事は、これを喜んで為す卑しさ、愚かさ。 このような心の闇が徐々に深くなっていくのです。
教会の1日神学校で、ボンヘッファーの獄中詩を学びました。彼は「私は何者か」と問い、次のように語ります。「人は、私が平然と微笑み、誇らしげに不幸の日々を耐えていると云う。しかし、私は籠の中の鳥のように落ち着きをなくし・・・些細な侮辱にも怒りのために体を震わせ、祈りにも思索にも疲れ果てる」。そして「偽善者」と「哀れな弱虫」のどちらなのかと、自問自答を繰り返し、最後を「わたしが何者であるにせよ、あなたは私を知っている。神よ、私はあなたのものである」と結びます。私は、冷静な心で、内面を真摯に見つめる彼に心が魅かれると共に、そのように、ただ自分を深く掘り下げ続けるだけでは意味がない事を教えられ、肩の荷が降りた気持ちでした。確かに、私の中には「惨めさ」しか見出せません。しかし、この私を、神がどのように思われるのか。私の私に対する思いではなく、神の私に対する思いが大切なのです。 彼は誠実な歩みを続けて、最後には処刑されますが、死に臨み、「これが私の最後です。しかしまた私の始まりです」と語ります。
ここには絶望ではなく、希望があります。それは、あの詩の最後に、彼が「神よ、私はあなたのものです」と告白をする通り、 自分はあくまでも神のものであるという、神への強い信頼から来るものに違いありません。このように神を深く信頼する心は、あの厳しい状況にもかかわらず、最後まで神に従おうとする試練を通して、神から彼に与えられた恵みなのかもしれません。
遅かれ早かれ、人は誰でも死と向き会う時が来ます。ボンヘッファーが身をもって示す通り、神に対して誠実に歩む人は、確信を与えられ、最後まで希望の中を歩むことが出来るのでしょう。翻って自分を顧みると、私の歩みは神と人に対して正しく向き合う厳しさに欠けています。生ぬるいだけでなく歪んでいます。心の闇は、やはり抱え続けています。ですから私は、自分の死に臨み、彼のような確信に立ち、澄んだ瞳で神と向き合う事が出来るのかと自分に問えば、ただ沈黙をして、下を向くだけです。
イエスと共に 十字架に付けられた、あの犯罪人が頭に浮びます。彼にもそれなりの事情があり、あのように空しく最期を迎えることになったのでしょう。外側はともかくとして、歩みの中身を神から見たら、私と彼の歩みには違いがあるとは思えません。あの詩の言葉を借りれば、私は間違いなく「偽善者」と「哀れな弱虫」の両方を併せ持つ人間に見えるでしょう。結局のところ、私は彼と同じなのです。彼はイエスに「わたしを思い出してください」(ルカ23・42)と憐れみを乞います。
私も、神に対して不誠実な歩みしか持たない、ありのままの自分を差し出して「このままの私を、どうぞあなたの御心に留めてください」と願うだけです。彼はイエスから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)と約束の言葉を頂きました。私も、御国へ向かう人々の、最後の列の一人として「お前は私のもの」と神に呼び出されるなら、これに優る喜びはありません。
このように、確かに私にも神から慈しみと憐みが与えられることに希望を抱き、これから先、頭を挙げ、1日1日を歩むことが出来れば幸いです。
日本福音ルーテル水俣教会・八代教会牧師 吉谷正典