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バイブルエッセイ

イエスの激しい祈り

(イエスは)ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。すると、天使が天から現れてイエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。(ルカによる福音書22章39節~46節)

 イエスは十字架につけられる前日、弟子たちと最後の食事をしました。その後、血の滴るような汗を流して祈ります。聖木曜日夜の出来事です。
イエスが汗を流しながら祈られたのはゲツセマネでした。そこは旧約聖書にも出ているオリーブ山(ゼカリヤ14・2)のほぼ中央にあります。

 イエスはそこで「ひざまずいて」(ルカ22・41)祈り始めます。ユダヤ人は立って祈るのが習慣です。現在でもそうですが、特に大事な祈りになると立ったまま手を上にあげ祈ります。イエスがひざまずいて祈るのは極めて不思議な光景です。
イエスの祈りは「汗が血の滴るように地面に落ち」(ルカ22・44)ると、ある写本が書き残しているように、極めて激しいものでした。ゲツセマネには「実を粉々に粉砕する油絞り器」の意味がありますから、イエスはまさにご自分の体を粉々に砕き、血を体の中から絞り出すかのように祈ったのでしょう。

どうしてそれほど激しい祈りをされたのでしょうか。それを探る為に私は気づいたら十回もイスラエルに足を運んでいました。大半は個人で行きましたが三回はグループを引率しました。

一九八七年だったでしょうか、グループ旅行の時、ゲッセマネの園の教会で、「今日は一日祈りの為に取っていますからここで思う存分祈って下さい。但し閉門が四時ですからそれまでには出て来るように」と言って各自自由に祈る時間を取りました。最後の婦人が出てきたのは四時ぎりぎりでした。何と六時間祈っていたことになります。涙ながらに激しく祈ったことがすぐ分かりました。眼は真っ赤、顔の形が変わったようにも見えましたが晴れ晴れしていました。「先生、イエス様は本当に私の為に汗を流しながら祈ってくれたのがわかりました」と喜びに満ち輝いていました。 私がイエスの祈りが私の為であったことを身にしみたのは何度も何度もここを訪れ、長時間祈ってやっとのことでしたが、彼女はたった一回でそれを体験したのでした。

 イエスが祈って下さることが本当に分かることは私たちの信仰にとって実に大事なことです。イエスが祈って下さるから私たちは救われます。世の中には私たちを神から引き離そうとする非常に強い力があります。毎日その誘惑にさらされています。イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」(ルカ22・40)と命じますが、弟子たちは誘惑に負けてしまいます。私たちも同じです。私たちは弟子たち以上に誘惑に負け、罪に負けやすい弱い人間です。このままでは救われません。イエスはそんな私たちを、一人や二人ではありません、全人類のためです、全ての人を救う為にこの世に来られたのですから(第一テモテ1・15)、全ての人の罪を背負っています。全人類の罪を一身に負っているのですから余りにも重すぎます。ですから祈りは激しさを増さざるを得ません。

 そして遂に「父よ、御心なら、この杯をわたしからとりのけてください」と訴えざるを得ません。「杯」は私たちの罪すべてです。神はその訴えを聞き入れません。聞き入れたら、私たちはいつまでも救われることはありません。イエスがどんなに苦しくても、悶えても、飲み干して下さったから私たちは今赦しの中で生きていられます。

 主イエスは私たち人間の罪を赦すために激しい祈りをされました。激しい祈りだからこそ習慣的な祈りの姿勢ではなく跪いて祈りました。そろそろ受難の季節に入り、ゲツセマネのイエスの祈りに出会います。この祈りはあなたを救うための祈りです。今年はそのことをいつも以上に身にしみて、イエスの前にひざまずいて下さい。

日本福音ルーテル賀茂川教会  高塚郁男

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