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るうてる2006年

るうてる2006年5月号

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ティーンズキャンプ

 3月28日~30日、愛知県青年の家(岡崎市)にて恒例となりました春の全国ティーンズキャンプ(春キャン)が開催されました(キャンプ長・小泉道子姉)。全国各地から86名のティーンズと34名のスタッフが集い、恵まれたときとなりました。

 TNG-Teens部門で春キャンの7年サイクルのテーマが決められたことを受け、「信仰」について取り上げ、神を呼び求めるきっかけ、入り口になることを目指し、キャンプは企画されました。テーマは「I Believe in God」。
 年に一度、全国の仲間と出会うことはティーンズにとって何よりの楽しみとなっています。このことは、ティーンズの掲示板を見ると、手に取るようにわかります。しかし、ただ仲間と出会って楽しいというだけではなく、普段の生活では語り合えない神さまのこと、イエスさまのこと、信仰のことを真剣に語り合う喜びをティーンズは春キャンに求めてもいるのです。それに応え今回のキャンプは、グループに分かれての話し合いに時間を割き、お互いの思いに耳を傾け、また自分の思いを口にする機会を提供しました。語り合うために様々な準備もありました。ヨナ書を取り上げ、スタッフによるドラマで参加者に問いかけ、グループごとに劇に取り組むことによって、また映画を通して助けを求める者に応えてくださる神への信仰について深く掘り下げるときとなりました。
 そして今回、ゲストとして鈴木啓之牧師(シロアムキリスト教会)をお招きしました。映画化された「親分はイエス様」でも知られる先生の生き様と神との出会いの経験は、その気さくな人柄と一体となって参加者の心を大きく揺さぶり、神への信仰について深く考えるときとなりました。
 春キャンは、ルーテルこどもキャンプ(旧国際少年少女キャンプ)の卒業生を多数迎え、スタッフに多くの青年を得、次世代のつながりを実感するときでもあります。ティーンズを送り出してくださった皆さん、お祈りとお支えをくださった皆さんに心より感謝します。
 

婦人会連盟第20回総・大会

婦人会連盟より案内がありましたのでお知らせいたします。

 第19期3年間を締めくくる総・大会を左記の通り開催いたします。
 第20期新会長が選出され、7月より新しい歩みとなります。今後共お支えをよろしくお願い申し上げます。

ルーテルこどもキャンプ

キャンプのホームページへは、
http://www.jelc.net/~tng/からジャンプ!
 国際少年少女キャンプは、「ルーテルこどもキャンプ」へと名称を変更いたしました。
 今年も8月8日~10日の日程で、広島にて開催されます。どうぞ、皆さんの教会からも5・6年生を送り出してください。また、キャンプのためにお祈りください。

クリスチャンのライフカレンダー

~生まれてくるあなたへ~

 新緑が目に鮮やかです。全ての「いのち」が萌え、輝く5月になりました。今、私のお腹の中にも新しい命が宿っています。もうすぐ生まれてくるあなた。小さなあなたを抱いてこれから夏を、秋を、そして冬を過ごし、来年はこの緑の木立の下をいっしょに歩くことができるのでしょうか。
 命が与えられることの神秘さを思うと感動で心が震えます。命は神様からの贈り物。詩編の作者も歌っています、「主よ、あなたは私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立ててくださった」と。
 この前の超音波検査で医師から、育つことが難しい形態異常がお腹の中のあなたにあると告げられ、動揺してしまいました。今もまだ心の中には不安があります。けれど私は、あなたという素晴らしい命を造ってくださった神様に、そしてこの私を母として選んでくださった神様に深く信頼したいと思っています。これから起こる色々な困難や問題も神様がともにいて必ず支えてくださると信じて、生まれてくるあなたと一緒に歩んでゆきます。
 先日、教会の姉妹が「心配しないで。赤ちゃんはみんなで育てるからね!」と言ってくれました。とても嬉しかった。家族も教会の兄弟姉妹もみんな祈ってあなたの誕生を待っています。あなたと会える時はもうすぐですね!

インフォメーション

Teensの詩が本になりました。

第13回全国春のティーンズキャンプで参加した72名のティーンズが表現しました。
「いのちの詩」(A4変形140ページ)1冊 500円
申込は…宣教室TNG-Teens佐藤和宏まで
email:TNG_goods@jelc.or.jp

牧師の声「私の愛唱聖句」

東教区 蒲田教会 牧師 渡邉 純幸
……ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ……(マタイによる福音書 1章1~17節)
 私の愛唱聖句と尋ねられると、時代とともに変わりましたが、牧師になってからは特に挙げるほどのものはなくなりました。強いて言えば、マタイ福音書の冒頭に記されている「イエスの系図」の箇所です。聖句としては聖句らしくなく、あまりにも長いのですが、この固まりを一つの聖句と見なしたいと思います。
 新約聖書を開くと一番最初に目にする言葉です。この箇所の出会いは、教会に行き始めた最初の頃でした。自然に涙が頬を伝わって流れるということにはなりません。ここには人の名前が羅列してあるだけで、無味乾燥とも思え、多くの人は読むにつれて段々いやになり、途中でやめて、この箇所をすっ飛ばして次に移るのです。新約聖書の一番最初ですから、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とでもすれば、もっと聖書に親しむ人が多くいたかも知れません。しかし福音書記者は、系図を最初に記したのです。この箇所をずっと長い間、無視し、すっ飛ばしていましたが、ある日、このイエスの系図が最初に置かれているのはなぜなのかとの問いに、ゆっくり読み始めました。退屈さを忍耐で包み込んでという心境でした。しかし読み始め、調べ始めていくと、この箇所が自分に取って、頭から無味乾燥的なカタカナ文という食わず嫌いが大きく変化して行きました。
 ご存知のとおりこの系図には「タマル」「ラハブ」「ルツ」「ウリヤの妻」、そして「マリヤ」と五人の女性の名前が記されています。それもイエスの母マリヤ以外の四人の女性の名前は、姑をだましたり、遊女であったり、異邦人であったり、ましてやウリヤの妻バテシバの姦淫の女と、人前に出すには気後れしそうな人ばかりです。そのような観点から見るならば、マタイ福音書の系図には書き記してはならないし、イスラエルの選ばれた民ということから考えても、極めて不思議な人物を書き記していまです。彼女たちの名前は抹消してもよく、アブラハムの妻サラ、イサクの妻リベカなど偉大な人物を支えてきた妻の名前が明記されてもおかしくないのに、系図はそうは記さないのです。
 イエスの系図には、これら四人の女性の名前が敢えて記してあるようです。イエスの系図は、ありのままの姿を記し、私たちの思いとは逆に、この四人がキリストの誕生にはなくてはならない人物としてあり、私たちに救いの手が差し伸べられていることに気づきます。
 教会に通い始めた頃、どうしておもしろくない、意味のない人の名前を長々と記してあるのかと不思議に思いました。しかし今では、何か壁に突き当たったとき、この箇所を読むと、意味のないように思っている中に大きな意味があることを知らされ、立ち止まらせてくれる箇所となっています。その意味でイエスの系図が福音として私に迫ってきます。 

信徒の声「教会の宝石を探して」

西教区 神戸教会 信徒 大﨑 英一
Q.近況についてお聞かせください
A. 教会生活は 年、今年で 歳になります。会社生活を終えたのが 年前で、その後、老人大学の受講、地域の自治会(5000世帯)のお手伝い、家庭菜園、春秋の国内旅行と楽しさ溢れる予定表で唯一残っていた公職も四條畷の「るうてるホーム」の理事のみでした。ところが、昨秋進行胃ガンの診断を受け生活が一変しました。抗ガン剤のみの治療方針が決まり、食欲不振、脱毛、味覚障害、ふらつき等の副作用に見舞われました。
 早い時期から朝比奈先生はじめ小泉潤先生、市原正幸先生が病院に来てくださり、脱力感の中にある私を慰め、励まし熱い祈りを献げ、力を与えてくださいました。感謝で涙が止まりませんでした。
 ブラジルに居る長女はルーテル・サンパウロ教会の教会員からいただいたプロポリス錠剤やアガリクスをもって帰国し主治医の話を聞いていました。
Q.昨年は大﨑さんの呼びかけで「大熊牧師を覚えて」宣教記念集会が行われました。これについてお聞かせください。
A. 大熊四郎牧師は1954年召天されましたが、その遺徳は教会員のなかに生きつづけ、当時教会学校生徒であった内藤和子さん、牧田稔さんと3人で当番をしました。私は昭和 年、先生から洗礼を受けましたが、今日の教会生活は先生なしには考えられません。先生を偲ぶ会は「葡萄の枝の会」と言い、この 年間に7回集まっております。今は 歳前後の熟年世代が先生の聖書研究会のガラテヤ書「人よりにあらず、人によるも非ず」を基本として納得のうえ会が進行するのです。高齢のため出席の難しい方や亡くなった方々は、ご家族やご遺族が出席してくださいました。
 大熊牧師のあと、長沼三千夫牧師、江副栄一牧師、牛島義明牧師、上道信義牧師(以上 人は故人)が来られ続いて野口泰介牧師、松岡俊一郎牧師、朝比奈晴朗牧師が来られました。顧みると神戸教会は大変恵まれた教会で優秀な牧師を派遣してくれた教会本部や教区に大変感謝致します。
Q.長い間神戸教会に集い、歴代の牧師を支えて来られた大﨑さんにとって「教会の宝」とはなんでしょうか
A. 教会の宝とは、歴代牧師と信徒と丘の上のチャペルであります。一つの教会で信仰生活を終えることができそうな私にとり、神の恵みは神戸教会に十分にあると思っております。
Q.最後、に信仰生活に影響を受けた本などがありましたらお教えください
A. シェンキェヴィチ著「クォヴァディス」です。洗礼を受ける前、学生時代に読んで非常に強い印象を受けました。ローマから脱出しようとするペトロがイエスと出会い「クォヴァディス ドミネ(主よ、何処に行き給う)」と呼びかける。するとイエスは「なんぢ我が民を捨つる時我ローマに往きて再び十字架に掛けられん」とお答えになる。この箇所を読んで、どの様な時でもイエスは共に居てくださる、ということを強く確信し、感動いたしました。

求道者の旅 14

*「求道者の旅」より抜粋
ケネス・J・デール  ルーテル学院大学名誉教授 引退宣教師

第14回 三つの神

 ルーテル教会では6月に三位一体の祝日が守られています。伝統的信条に、三つのペルソナ(位格)を持つ、三位一体である神が記されています。昔のアタナシウス信条に、次の逆説的な表現があります。「真のキリスト者の信仰とは、一なる神を三位において、また三位を一として礼拝するのである、、、父は永遠であり、子は永遠であり、聖霊は永遠であるが、しかし、それは三つの永遠ではなく、一つの永遠であり、そして図り難いものです。」

 私たちのどの教会の伝統的信条にも、三つのペルソナ(位格)を持つ、三位一体である神が記されています。何と頭を悩ませる神学的信条ではありませんか。「三位一体の神」という考えは、今日私たちに取って意味のあるものとする事が可能でしょうか。


なぜ「三位一体」なのでしょう

 神は三位一体であるという古代の教義は当惑させるものですが、今私は次のように意味付けています。すなわち、神は完全に超越した、宇宙の創造主です。神は始源であり、根源です。父が家族の創始者であるように「父」と呼ぶ事ができるのです。
 しかし、神は同時に神秘的で霊的な方法で人間の魂に働きかける、完全に内在的な存在でもあります。これは神の霊の働きであり、私たちはこれを聖霊と呼んでいます。
 そして、父なる神の性格と、聖霊の働きの内実に具体的に洞察を与えてくれる鍵は、史的人物としてのイエス・キリストに他なりません。
 
三位一体のそれぞれの意味
 創造主としての「父」はすべての物質界、科学の領域と関わります。「父」は創造の業を示します。
 史的人物としての「子」は人間社会や人間関係、すなわち倫理の領域と関わります。「子」は愛と正義を示します。
 助け主としての「聖霊」は、精神的世界、霊的な体験の領域と関わります。「聖霊」は一人一人の内的変容を示します。

逆説
 神は
  創造においてご自身を隠され、
   しかし、イエス・キリストにおいてご自身を明らかにされ、
  私の深奥の自己の霊に留まり、
   しかし、私自身とは全く別の存在であります。
 これらの逆説の中に、三位一体の神の神秘があります。
(K.デール、上村敏文共訳)

聖研「詩編を味わう」

2.つぶやきの信仰  

 文:賀来周一
主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。
わたしの王、わたしの神よ
助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。
あなたに向かって祈ります。
主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。
詩編 5編2~4節

 神への祈りは、常に感謝と讃美の言葉で綴らねばならないのでしょうか。人はときに辛い思いをもって今日を生きねばならないこともありましょう。朝目覚めるとき、嗚呼今日も重苦しい一日が始まると思い、夜床に就くとき、明日の目覚めがないことを願う日々を送る人々にとっては、口から出る祈りが感謝と讃美にあふれるとはとても思えません。むしろ愚痴と嘆きではありませんか。
 
愚痴と嘆きの居場所
 嘆きの詩編といわれる、この詩の作者は人には言われぬ重たい日々を送っていたのでしょう。眠れぬ夜を過ごし、朝目覚めた時に真っ先に心に思い浮かぶのは愚痴と嘆きだったにちがいありません。ついつい神への祈りはつぶやきとなって口から出るのです。これを不信仰というのでしょうか。これを不信仰というなら、口先だけの感謝と讃美の方がもっと不信仰といわねばなりません。作者は、神が「つぶやきを聞き分けてくださる」お方であると知っています。つぶやきは聞かないように、別にしてくださいという意味ではありません。つぶやきだけを聞いてくださいといっているのです。神はつぶやきを聞いてくださいます。毎朝、神に向かってつぶやくことができる信仰をもっている人は幸いです。神は本音を聞いてくださるお方であることを知っているからです。
 作者は、本音で神と向かいあっているのです。信仰の世界は、奇麗ごとを許さず、ありのままをさらけ出すことをよしとする世界です。ときにつぶやきは、嘆きとなり怒りとなり、悲しみとなることもありましょう。言ってみれば、神に対するわがままです。しかしながら、彼にとっては、神はわがままを聞いてくださる方でありました。なんという素晴らしい信仰でしょう。
 もしも信仰の世界が、整った感謝の言葉と美しい賛美の調べだけででき上がっているとすれば、眠れぬ夜を過す人々は、どのような言葉を口にすればよいのでしょうか。取り繕って感謝と賛美をささげたとしてしらじらしい思いが付き纏うだけです。
 現代の教会は、信仰の世界を美しく飾り過ぎます。信仰者は、元気で、明るく、健康でなくてはならないかのようです。愚痴をこぼしたり、メソメソしていたのでは不信仰の中からまだ抜け出していないのだと叱咤されるかもしれません。美しくて健康な信仰の世界だけが大手を振って教会の中を闊歩するなら、愚痴と嘆きをこぼす者は居場所を失います。信仰の世界は、愚痴も感謝も嘆きも喜びも等しく堂々と教会の中に居場所を持たねばなりません。
 笑いより悲しみを、喜びよりも愁いを 
 ヤコブの手紙は、それ以上に驚きのメッセージを伝えています。「笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」(4 章9節)と言うのです。笑いよりも悲しみを、喜びよりも愁いを信仰の場に引き出しているのです。笑いと喜びだけが信仰にふさわしいとは言いません。このヤコブの手紙の言葉は、眠れぬ夜を過す者にとっては、この上ない慰めです。教会の裏舞台であたかも不信仰のしるしを掲げたかのような愚痴と嘆きのつぶやきが、信仰の世界の中に市民権を得ていることを教えてくれるからです。
 神は朝ごとにつぶやきの言葉のみが神への祈りであるような者の声に耳を傾けてくださる、しかも、取り分けてつぶやきを聞き分けてくださる、このような神との祈りの時を持つ者は幸いです。
 しばしば教会の看板には、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)とのみ言葉が掲げてあります。疲れた者、重荷を負う者は、元気がありません。目頭が涙でうるんでいるかもしれません。ついつい愚痴が口からついて出るのであり、嘆きの言葉が祈りの代わりとなることもありましょう。「休ませてあげよう」とは、主は「それでよいのだ」とおっしゃっていることに他なりません。主がゆるしてくださるのであれば、立派な信仰の姿です。「つぶやきを聞き分けてくださる」お方がそこにいますことを知っているからです。

各地の働きから「宣教する教会」

バザーのこれから、新しいカタチ

 バザー――それは教会の定番行事の一つ。しかし、社会的変化や教会構成員の変動など様々な理由によって、その在り方が問われています。本誌編集部からの投げかけに3つの教会から応答をいただきました。バザーのこれからを考えるきっかけになればと願っています。

宮崎教会

 「教会バザー」から「オープンチャーチ」と名称を変えて、3年目を迎えます。教会が地域に根ざし、より多くの人たちが教会に足を運んで下さるようにするにはどうしたらよいか、毎年試行錯誤を重ねながら歩んでいます。そして、それは(1)教会の活動の一端を見ていただく機会とすること(2)地域の方たちと一緒にやり、かつ交流の場としたい、という私たちの希望に沿って行なわれています。
 イベント会場(礼拝堂)では、わらべ歌・お話し読み聞かせ・パイプオルガン演奏等を親子で楽しんでいただき、集会室では食堂・食品や物品の販売。屋外では、地域の福祉作業所の方たちによる出店(クッキー・パン・手芸品・苗木等)があり、また公立大の学生たちによる「地雷ゼロ宮崎」の活動写真の展示やお話し。子どもコーナーでは、地元のボランティアの方によるバルーン遊び等が行なわれます。
 当日は、若い世代の親子の姿が多く見られるようになりました。教会の明日へ繋げることができるようにと、願っています。           (三好けい子)

岡山教会

 岡山教会では、2005年度より、従来行われていたバザーの形を少し変えて、ただ物品の販売をするだけではなく、もっと地域の人たちとの交流の場、教会員も楽しめる場にするために、「秋のるうてるフェスタ」という名称で新しい試みをしてみました。
 結果は、大成功で、フェスタ当日の11月13日は大雨だったにも関わらず、大勢の方が教会を訪れてくださいました。特に、教会員の「作品展示コーナー」は好評で、写真や、焼き物、絵画や書などの作品が飾られ、お客さんとの間で楽しい会話が交わされておりました。また、コーヒーやケーキを楽しみながら、ギターの弾き語りに合わせ、みんなで懐かしい歌やポピュラーな歌を歌った「歌声喫茶」も大変な盛り上がりで、家族連れの方たちからも、「こんな機会は、なかなかない。ぜひ、またやってほしい」とのリクエストを多数いただきました。
 やはり、教会員にとっては大忙しの1日となりましたが、今年は更に工夫して自分たちも無理せず楽しめる行事にできたらと考えています。
(坂本千歳)

千葉教会

 千葉教会では、一般的な形式(?)のバザーが今年も開催されました。と言っても、関連施設から人的にも、物的にも多大な支援を受けていますから、恵まれた環境にあると言えるでしょう。地域にも根ざし、4月29日には近隣よりたくさんの方々が来場されます。また、信徒が友人、知人を誘う機会としても意義があります。
 千葉教会バザーの目玉は様々ありますが、手作りパンや菓子、農家で獲れた野菜や教会員の畑で獲れた草花などは口コミでも広がり、人気を集めています。
 バザー当日は、教会の活動を画像にして紹介したり、教会案内を買い物袋に入れたりしています。成果はすぐには表れませんが、中に入ってもらうこと、教会の雰囲気を味わって、身近に感じてもらうことが大切だと思います。
 近年、フリーマーケットや格安ショップの台頭により、バザーのあり方が問われています。同じことを習慣的に繰り返すのではなく、かつ今の形も大切にしながら、新たな展開を目論んでいるところです。

議長コラム(m-yamanouchi@jelc.or.jp)

日本国憲法を護ろう

  5月3日は憲法記念日です。今、力の均衡による平和維持論から、丸腰による平和創造論への大転回が唱われている日本国憲法が、危機にさらされています。それは、この憲法が、二度の原爆被爆という悲惨さを体験した中から生まれたということが、忘れられようとしているからです。
 「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という諺がありますが、日本の歴史は、今、その愚かさを犯そうとしています。戦争を知らない世代が国政の指導者となった今、あの日本国憲法の人類史的意味が見失われようとしています。
 前文に「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」とありますが、今、この文言のもつ意味が、「国際貢献」という名のもとに、乱暴に捩じ曲げられています。
 ここでいう「名誉ある地位」とは、人類が未だに取り組んでいないことを実現させることによって得られる地位です。それは、常に幻想に終わってしまう武力の均衡による平和維持から、丸腰による平和創造への転換です。それを実現させるために、日本国憲法の第九条が規定されました。即ち、人類はこれまで、相手と同じ力を持ち合うことによってお互いを牽制し、一方が他方を支配することのないように目論んできました。しかし、その目論みは常に破綻して来ました。この愚かな歴史を繰り返さないことを誓ったのが、日本国憲法の前文と第九条なのです。
 力の均衡による平和維持論は、お互いを敵視する人間観に基づいています。日本国憲法の前文はまずそのことを否定しています。曰く「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」。ここに、人類が勝ち取った平和への大転回があります。
 日本国憲法を人類の宝として存在し続けさせるために、どの国も仮想敵国とみることなく、積極的に交流して、平和を創造して行きたいと思います。

新任挨拶

神の召しに応えて

今年任用された3名の教職の方々からメッセージをいただきました(敬称略)

『イエス様を誇りに!』

花城 裕一朗  浜松教会
 すべてが新しい出会い・環境であるはずなのに、前に来たことがあるのではないかと思われるほど、とても自然で、心に安らぎを感じています。これも神様の御導きと思い、感謝しています。
 浜松教会は静岡大学の通りに面していて、毎日、人も車もたくさん通っています。伝道のアイディアがウズウズしています! 浜松教会の皆さんも伝道したくてウズウズしています! 教会にしかないものを大切にしながら、堅実にやっていきたいと思います。

『東京教会に来てくださいね』

関野 和寛   東京教会
 毎朝聖書を開くことから始め、 週間戦ってこられた会員の方には「おかえりなさい!」と、悩みを抱え入ってこられた方には「一緒に神さまに祈りましょう……」と語らせていただく毎日。
 きっと誰でも東京教会に一歩足を踏み入れた方は、神さまの家に呼ばれているんです。イエスさまがこの東京教会に、そして大久保通りに立っていたらどうされるだろうか。「神さま、どうしたらいいですか」とすがりながら、全力で伝道していきます。

『ただひとつの持ち物』

西川 晶子  防府教会、徳山教会、益田教会、柳井教会
 島根・山口にまたがるシオンの群れに遣わされて約ひと月。自分が一番何も持たない、ということを実感する毎日です。
 しかし「ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』」(使徒言行録3章6節)。他ならぬ主が、その何も持たない者とともにいて、みことばを委ねてくださっている。その事実に感謝して歩みたいと思っています。よろしくお願いいたします。

ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校  学長・校長・チャプレン就任式

2006年4月5日(水)午後3時~
 学長・校長・チャプレンの任期は4年間。法人理事会の議を経て、学長に市川一宏教授(再任、2期目)、校長に江藤直純教授(再任、2期目)、チャプレンには河田優牧師が新に着任された。
 式では、「喜びを内に秘めて」と題した山之内議長(JELC)による説教から、それぞれが担う責務を全うすべく、力強い支援のメッセージが語られ、続いて高野議長(NRK)の司式による3名への就任式へと進められた。
 神学校の創立から数えて97年、日本福音ルーテル教会(JELC)並びに日本ルーテル教団(NRK)を母体として歩む学校として、新たに選ばれた指導者のもと、神と世に仕える人材の育成機関としての働きに、一層の期待が寄せられている。

第6回ディアコニア環境・人権・平和セミナー報告

2月11日、名古屋で「われらに日毎の糧を今日も与えたまえ」と題し、中井弘和氏(静岡大学名誉教授・小鹿教会員)にお話を伺いました。
 世界の飢餓人口は12億、2秒に1人は飢えのために死んでいる。飽食日本の穀物自給率は24~28%と、仏(190・7)米(134・6)印(99・7)中(95・8)などアジアの中でも異常な低さ。それを知らずに安価な輸入食料を買い求める消費者。そのことが日本の農業を衰退させ、世界の環境を悪化させ外国にまで迷惑をかけている―地球規模で考えたときに「日毎の糧を今日も与えたまえ」という祈りが現実の切実な祈りとなるために、私たちは何を変えていかなければならないか。
大きなテーマを前に、さまざまなことを学んだセミナーでした。詳しい報告は、ネットワーク機関紙「緑豊かな国に」次号掲載。
(全国ディアコニアネットワーク)

各教区の新任常議員一覧

総会で選出された新常議員

●北海道特別教区
教区長:藤井邦昭
副教区長:--
書記:岡田 薫
会計:渡辺建生
伝道・奉仕:大賀隆史
教育:ビリピ・ソベリ
社会:--
財務:山本雅啓

●東教区
教区長:立山忠浩
副教区長:大柴譲治
書記:平岡正幸
会計:豊島義敬
伝道・奉仕:杉本洋一
教育:佐藤和宏
社会:浅野直樹
財務:鳥飼一成

●東海教区
教区長:青田 勇
副教区長:--
書記:三浦知夫
会計:安井則夫
伝道・奉仕:齋藤幸二、中山俊美
教育:--
社会:末竹十大
財務:--

●西教区
教区長:立野泰博
副教区長:滝田浩之
書記:滝田浩之
会計:石田博美
伝道・奉仕:平岡博
教育:平岡博
社会:竹森洋子
財務:狩野俊明

●九州教区
教区長:長岡立一郎
副教区長:沼崎 勇
書記:沼崎 勇
会計:末吉諦
伝道・教育:日笠山吉之
社会・奉仕:潮谷愛一
財務:末吉諦

日本キリスト教協議会(NCC)第36回総会

 NCCの第36回総会が、日本基督教団下谷教会を会場に3月13-14日に開かれました。
日本福音ルーテル教会からは9名の総会議員が選出されています。
 今回総会では、鈴木伶子議長に代わり、輿石勇氏(日本聖公会)が新議長に選出されたほか、第36会期活動方針と諸委員会設置が承認されました。
 各加盟教団の教勢低下からくる財政難も緊急課題で、NCCの抜本的な組織・財政の見直しが課題とされています。

訂正

お手元の教会手帳の住所録に誤記がありました。以下の通りに訂正します。
■紙谷守(※電話番号)
電話・FAX共用 0977・24・8400
■銚子集会所
電話番号が記載されていますが、現在電話はありません。
■中越ルーテル教会(日本ルーテル教団)
電話・FAX共用 0256・33・1857

住所変更

■川口 誠
〒431・0423 静岡県湖西市入会地12の26

市町村合併に伴う住所変更
■甘木教会
〒838・0068 福岡県朝倉市甘木1861
■丹澤 桂
〒409・3842 山梨県中央市東花輪1351の6

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