「いのち」を与える聖霊
「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』 ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』 イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。』」(ヨハネによる福音書3・3〜6)
聖霊降臨の期節です。今日は、私たちの救いのために必要不可欠な聖霊のお働きについて、ご一緒に見て参りましょう。 イエス様は言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」
ここでの「霊」は「聖霊」のことを意味しています。ですからイエス様の言葉によれば、《私たちは、聖霊によって新しく生まれるのでなければ、神の国に入ることができない》、ということです。
今、「霊から生まれたものは霊である」という言葉に注目してみましょう。聖霊は三位一体における第三位格の神であられます。ですからこの言葉は、「神から生まれたものは神である」とも言い換えることができます。人間から生まれたものは人間です。しかし、神から生まれたものは神です。それでは、もしも私たちが、聖霊なる神によって新しく生まれるならば、その時私たちは、人間なのか?神なのか? その答えは、聖書に求めることができます。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1・12〜13)
つまり、私たちが聖霊によって新しく生まれること、そのことは、《神の子となる資格を与えられること》を意味しているのです。私たちは普段、当たり前のように「父なる神様」とお呼びします。しかし、実はそれは、自分自身を「神の子」とするに他ならない行為であって、もしも時代が時代なら、死罪に当たる冒とくの罪です。イエス様ご自身、「神の子と自称した」(ヨハネ19・7)という罪で訴えられている通りです。しかし私たちは、聖霊によって新しく生まれているがゆえに、「アッバ、父よ」と呼びかけることができるのです。 パウロもまた、次のように証ししています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」(ローマ8・15〜16)
聖霊を受けるということは、また、水を飲むことにも似ています。聖書に次のように書いてある通りです。(ヨハネ7・37〜39)「『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている〝霊〟について言われたのである。」
また、イエス様が与える水(聖霊)を飲むなら、そこから永遠の命が生まれて来ます。次のようにイエス様が言われている通りです。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4・14)
こうして私たちは、聖霊によって新しく生まれることにより、私たちの内に新しい《いのち》を宿すことになるのです。それをこそ、《永遠の命》と言うのです。このことは、私たちがいつも信仰告白しているニケア信条でも言われています。「主であって、いのちを与える聖霊をわたしは信じます。」その通りです。聖霊によって私たちは、《いのち》が与えられるのです。この《いのち》は、神によって生まれさせられた《いのち》であって、この《いのち》があるからこそ、私たちは神の子と認められ、神の国に入ることができるのです。
どうか主が、この聖霊降臨の期節に、聖霊についての知識を少しでも私たちの内で増し加え、信仰を強め、豊かにしてくださいますように。
日本福音ルーテル知多教会牧師 花城裕一朗