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バイブルエッセイ

「主イエスの昇天の姿を注視する」

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(ルカによる福音書24・50〜53)

 復活の主イエスは弟子たちに現れ、40日の間、弟子たちに神の国について教えられ、罪の赦しの福音をあらゆる国の人々に伝えるようにと彼らに命じられました。そして、彼らの見ている前で天に昇っていかれたのです。その後、彼らは「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」とあります。ついこの前まで、恐れと不安に取りつかれ、家に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちが、敵対者が大勢いる神殿の境内でこのような行動をとるようになるとは、まるで人が変わってしまったかのようです。何が彼らを変えたのでしょうか。
 彼らを勇気づけ、奮い立たせたのは、大きく両手を広げて祝福しながら天に昇っていかれた主イエスのお姿ではなかったでしょうか。これによって主の両腕の中に包まれ、抱かれ、守られているという確信が弟子たちに与えられたのではないでしょうか。旧約聖書の数々のエピソードが教えるとおり(ヤコブが祝福をもらうまで一晩中、神の人と格闘する等)、聖書の民にとっては神の祝福は死活問題なのです。弟子たちも、自分たちへの応援と後押し、確かな約束として、主の祝福の姿を受け取ったのでしょう。
 また、主イエスが弟子たちやこの世界を祝福されたのは、ご自分の命と引き換えにするほどに、私たち一人一人の存在をかけがえのないものとしてくださったこと、そして福音宣教、すなわち、誰にとっても良き訪れである命の尊厳や取り換えのきかない一人一人の存在の価値を伝える使命が、私たちキリスト者と教会に託されたことを厳粛に受け止めなければならないでしょう。
 これはいつの時代にあっても、挑戦的で命がけの使命となるのです。なぜなら、この世は神の愛から遠く離れ、神を神と認めず、相対的にすぎないものを絶対化して、その結果、人間の命・尊厳をないがしろにする力が強く働くからです。時にその力に飲み込まれ、翻弄される私たち自身でもあるのですが、だからこそ、主に従う私たちは、大きく両手を広げ、祝福しながら天に昇って行かれた主イエスのお姿を絶えず思い起こす必要があるのではないでしょうか。
 ルカ福音書の続編である使徒言行録には、「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(1章10節a)とあります。「見つめていた」とは、「アテニゼイン」というギリシャ語ですが、「一心に、注意深く見つめる」ことで、不思議なものをじっと見つめること、また期待と希望をもって見つめることです。
 私たちキリスト者も、例外なく誘惑や苦難に出会うことは必至なのですが、しかし、私たちを取り巻く文化・価値観が苦しみを避けるためなら何でもするという傾向が強いのに比べて、十字架の苦しみ・死を経て復活へと導かれる聖書の信仰は、苦しみの中から非常に大きな救いとなるようなことが生じるのだという、本当の希望に私たちを目覚めさせてくれるのです。
 この希望に目覚めた弟子たちは、もはや自分たちの命を狙う者たちの存在を恐れず、大胆に喜びにあふれて敵のただ中で神を賛美するのです。同じように私たちもまた、主イエスの姿を一心に見つめ、いと高きところにおられる神のまなざしを感じながら主を賛美し、証ししたいのです。飾り立てた言葉をならべる必要もなく、誰かのまねをする必要もなく、あるべき論も必要ありません。「わたしは、父が約束されたもの(聖霊)をあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と主は言われました。
 「自力で」ではなく、父から送られる聖霊の力によって、また、孤立してではなく、主イエスにつながる群れとして、祈り賛美し、励まし合い、その時を待ちましょう。やがて、その群れの真ん中に聖霊が注がれます。

『キリストの昇天』ガロファロ作・1510年~1520年・油彩画・国立古典絵画館

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