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バイブルエッセイ

「イエス様は知っておられるから」

「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」
(テサロニケの信徒への手紙一5・9)

 「神様を信じたら良いことがあると思ったら、悪いことしかおこらない」と訴えてきた人がいます。確かに神様を信じることで良いことばかりがあるとは限りません。むしろ都合の悪いことばかりと思ってしまうかもしれません。
 なぜなら、神様を信じると「自分にとって都合の良い」ことばかりは起こらないからです。むしろ、神様から与えられた本来の道を歩くため、悔い改めの道が与えられるのです。それは私たちを救いへと導くためです。「自分にとって都合の良い」ことを考えるとき、そこには自分しか見えていないのです。自分に都合が悪いことでも感謝して受け取ることができるか。どんなことにも感謝することができるか。
 11月になると天に召された信仰の先輩たちが、キリスト者としての人生すべてに感謝しておられたことを思い出します。「ありがとう」を残して神様の御許に召されていかれました。その「ありがとう」が今日もここに遺っています。
 テサロニケの信徒への手紙一は、聖書の中でも最初に書かれた手紙です。教会はその時、迫害と試練のなかにありました。そのような中でパウロは「感謝する」という言葉からこの手紙を書き始めています。また有名な言葉「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(5・16~18a)という言葉で手紙を締めくくっています。試練や迫害の中にあってもイエス様が共に居てくださることを証しするのです。
 この箇所も、神様は私たちを怒りに定めるのではなく、何とかしてイエス様の十字架によって救うために働かれると告げています。それは人々の試練や苦しみをよく知っておられるからです。信仰の先輩たちは「どんなことにも感謝しなさい」の「どんなこと」の中に、何がどれだけ入っているかを考えてごらんと教えられました。またその人の信仰が見えると。「どんなこと」は「どんなこと」であり、実は神様に導かれてすべて感謝することができると教えて下さったのです。
 ある時、信徒の方の手に包帯があるのを見てビックリしました。何があったかをお聞きすると、寒い日に地面が凍っていて、そこを通るとき足を滑らせたそうです。とっさに手をついた時、左手の小指を骨折されたそうです。とても痛そうでした。ところが、骨折されているのにとても明るいのです。その方が言われるのは骨折したのは痛いけれど、「右手でなくてよかった」、「手首でなくてよかった」、「旅行のあとでよかった」、「料理ができるからよかった」、「礼拝に来ることができてよかった」、「皆さんにお会いできてよかった」、「この痛みでたくさん教えられてよかった」と言われるのです。
 人生は考え方次第で恵みにも苦難にもなります。コップに半分の水が入っていても、ある人は「半分しか水がない」と言い、ある人は「半分も水がある」と言います。また「半分は空である」という見方もあります。同じものでも見方が違います。私たちはどうせ見るなら信仰によって受け取る、キリスト者として生きる見方をしたいです。試練や失敗があっても、これは神様が何かを教えてくださるためと思い感謝できたらと願います。そのような見方によって初めて神様の御心が分かるのでしょう。
 パウロは「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」と教えています。大きな試練や苦しみの時でも、イエス様は共に居てくださいます。何とかして人を救いに導くために寄り添っておられます。「あなたの痛みを知っている」とイエス様は言われます。その御言葉に救われるのです。神様は私たちを救いに導くために、今日も十字架の上から声を掛けてくださっています。
 教会の宣教が伸び悩む中でも、感謝して何か始める勇気を持ちたいと思います。信仰の先輩たちから受け継いできた教会を未来に引き継ぐために。いまを感謝して。

「ゲッセマネのキリスト」(1890)
ハインリッヒ・ホフマン

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