主に向かって心からほめ歌おう
「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
(エフェソの信徒への手紙5・15~19)
「今は悪い時代なのです」とパウロは言います。主イエスがこの世に来られてから今に至るまで、世界は悪い時代であり続けています。神のみことばが伝えやすかった時はない。争いのない時代はない。差別のない時代はない。この世界が平和であったことはいっときもありません。旧約聖書、創世記の時代、神がこの世界を創った最初から、アダムとエバの夫婦げんか、その息子カインとアベルの兄弟殺しに始まります。聖書を読んでほっこりするか、安心するかしたいのに、聖書の中に平安な心で生きた人々はほとんど出てこないのです。
聖書の世界で平和が実現されたこともありません。平和を作ろうとすると、迫害が始まるのです。それは、誰かが自分の権力を失うからです。聖書の中の権力者たちは人を痛めつけることで自分を大きく見せて、その地位を保とうとしました。主イエスが十字架につけて殺されたのは、主イエスが真実を語るお方だったからでしょう。真実が明らかになると人々は自分たちの罪の現実を見せつけられてしまいます。自分の罪を見せつけられたら、心の平安は乱れてしまいます。だから人間はキリストの口をふさごうとしたのです。
けれども聖書は、罪の現実では終わりません。それ以上の大いなる現実を伝えます。それは主イエスのもたらすものが、人間の生み出す争いや憎しみを、人間の汚れを拭い、人智をはるかに超えた大きな力であるということです。
私たちは自分では自分のことをどうしても救うことのできない愚かさを抱えています。思ってもいないことを口にし、自分の保身のために他人を傷つけます。その愚かな私たちのもとに主イエスは来てくださいました。主イエスの十字架によって、私たちが賢い者として光の内を歩むことを可能にしてくださいました。
だから聖書は教えます。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」私たちが賢く歩むには、自分自身を敬い、自分自身に感謝することをやめて、敬い、感謝すべき方は神様であることを知らなくてはなりません。
私たちは主イエスに神の正しさと神の愛の中で、主の御心を求めて生きるようにと言われるのです。賢い者とは、学のある人間のことではありません。主の御心を第一として歩む者なのです。貧しい者の元に降っていかれ、弱い者と共に歩まれたキリストと共に歩むようにと言われるのです。主の御心がなんであるかを求め、どんな悪い時代であっても、その悪の中に入っていき、傷つきながらも、平和を作り出すものとされていくようにと言われます。
そうして、聖書は教えます。「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と。コロナ禍が過ぎ去って私たちは礼拝で賛美歌を歌って賛美できるようになりました。声たからかに賛美をささげることができるのは嬉しいことです。
しかし、「酒に酔いしれてはなりません」とあります。自分が酔いしれるために、自分が楽しくなるために歌うのではありません。自分が気持ち良くなるために歌うのではありません。自分の気持ちではなく、主を第一として賛美をささげるのです。主に向かって心からほめ歌うのです。賛美は安心と平安を生み出すだけのものではありません。苦しみに立ち向かうために、平和を作り出すために、悪い時代に出ていくためにほめ歌うのです。キリストに仕える者として、真に賢い者であるために、私たちは霊に満たされ、霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いましょう。その時、私たちは自分自身のなすべきことを教えられるでしょう。
私たちを奮い立たせてくださるキリスト、この主を土台として、感謝し、畏れ、互いに仕え合う、教会はこのことに生きてきました。奇麗なだけではない罪の現実を知ってなお、これからも私たちは主によって生かされ、主を見上げ、ただ主に向かって、心からほめ歌い続けたいと思います。
書簡を書く聖パウロ ヴァランタン・ド・ブーローニュ作
油絵 1618年~1620年頃 ヒューストン美術館蔵