「聖なる地」
「主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。(出エジプト記3・4~6)
新しい年を迎えました。皆様にとって2023年はどのような年だったでしょうか。辛いニュース、悲しいニュースの多い年ではありましたが、結婚や出産、就職、目標の達成といった、喜ばしい出来事を経験した方も多くおられたことと思います。
私はと言いますと、大阪生まれの大阪育ちの人間にとって「アレ」、つまり阪神タイガースが日本一になったことは本当に嬉しい出来事でした。報道では38年ぶりと何度も大きく取り上げられました。
実は私が人生の大きな節目を迎えたのは、まさに38年前です。大阪の町は日本一を目指して戦っている阪神タイガースの話題で持ちきりでした。しかし、高校3年だった私は通学の途中で強い衝撃を受ける出来事に遭遇します。私の目の前に赤ん坊を抱いたお母さんが歩いていたのですが、急に向きを変え、私の体にぶつかるようにして、そのままホームから電車に飛び込んでしまったのです。あっという間の出来事で、私は呆然と立ち尽くすだけでした。
この出来事はそれ以降、何度も何度も脳裏によみがえりました。自分ができることが何かあっただろうか、何かしなければならないんじゃないか、という思いが心の底から湧き起こりました。
私はクリスチャンだった母に連れられて幼い頃から教会に通っていましたが、熱心に聖書を学ぶタイプではありませんでした。その私が、自分の将来を神様に導いていただきたいと真剣に願い、熱心に聖書の言葉に耳を傾けました。やがて自分の目指す道は社会福祉であると示され、ルーテル神学大学入学後、牧師の召命へと結びついていきました。
与えられました聖書個所には「モーセの召命」という見出しが付けられています。神の山ホレブで柴の間に炎が燃えており、それを目撃したモーセは「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」と呟きます。
この箇所は、ルーテル教会の式文、教会起工式で読むことが勧められています。私の仕えている飯田ルーテル幼稚園でも、つい最近起工式が行われ、理事長の立場にある私が式典を執り行いました。
しかし「いよいよ始まる」という喜びよりも、思いがけない資材の高騰で厳しい資金繰りを強いられる現実を前に、モーセのように神様を信じて歩み出す必要があることを強く感じながらの司式となりました。
1911年4月1日に産声を上げた飯田ルーテル幼稚園は、100年を超えてこの地で福音を届け続けています。小規模ではありますが、キリスト教教育を続けてきた幼稚園と、それを支え続けた教会は、飯田に存在する「燃え尽きない柴」だと思うのです。「なぜあの柴は燃え尽きないのだろう。」そう思って近づいてくださる保護者の方々、子どもたち、地域の皆様に、神様の御力とイエス様の愛を示し続けるのです。
時代的には伝道をしていく難しさが強調されますし、思うようにいかない時は、神様の守りがあるのを知りつつも、「わたしは何ものでしょう」とおびえ、尻込みしてしまいます。それでも神様は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と力強くご自分を証しされ、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言い切ってくださるのです。
モーセの旅は40年の歳月を要します。その間に、民衆は神様を信じ続ける者と脱落していく者に分かれました。最後の最後まで神様を信頼した人々が約束された土地へと導かれていったのです。
私たちが神様に入ることを許された「聖なる場所」とは、教会であると言えるでしょう。神様はそこに「燃えても燃え尽きない柴」の炎を明々と輝かせ、人々を招いておられるのです。
現在、子育てをしている家庭のほぼ4割に、強い不安や孤独があり居場所がないと感じているということを耳にしました。高校生の時に目撃したあの光景を繰り返してはならない。あの母親のつきささるような眼差しを笑顔にしたい。私には再びそんな思いが与えられています。
私たち一人一人の力は小さくとも、できることはそばにあります。この1年、共に祈り、支え合いつつ「わたしは必ずあなたと共にいる」と言ってくださる方を見上げつつ、日々を重ねてまいりましょう。
「燃える柴」 セバスチャン・ブルドン作、17世紀制作、エルミタージュ美術館蔵