主の母、マリア
「マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」」(ルカによる福音書1・38/聖書協会共同訳)
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」ルカ福音書の受胎告知の場面で、天使ガブリエルがマリアに告げたこのあいさつは、クラシックの楽曲としても有名な「アヴェ・マリア」の元となった詞の一つです。
「アヴェ・マリア」は伝統的に「聖母マリアに対し、罪のとりなしを祈る祈り」として唱えられてきたものですが、現代のルーテル教会やプロテスタント諸派においては、マリアを信仰対象とすることはありません。マルティン・ルター自身は当初、アヴェ・マリアを祈っていたこともあるようですが、彼自身の中で福音理解が深まっていくにつれ、ルターの中でマリアを信仰の対象とすることはなくなっていきます。しかしルターは、その後もマリアを軽視していたわけではなく、彼女が「主の母」「神の母」として尊敬されることはふさわしいことである、というようなことを言っています。しかしそれもまた、マリアがもともと私たちとは違う「聖なる方」であったから、というのではありません。
マリアという人を私たちが想像しようとするとき、絵画などの、すでに母として完成された、包容力のある大人の女性である「聖母マリア」を思い浮かべがちではないでしょうか。しかし、この天使の知らせを受けたときのマリアは、おそらく当時の結婚適齢期とされる年齢の直前、10代前半の少女であったと考える方が自然です。
それくらいのまだ幼いと言ってもよい少女が、天使に思いがけないことを告げられる。実際、ここでマリアは当初、喜ぶよりもむしろたいへん当惑し、考え込んでいます。マリアの身に突然起こったことは、とうてい信じられないようなことです。そしてこの先いったいどのようなことが起こるか、そもそも家族や婚約者ヨセフをはじめ、周囲の人々がこのできごとを信じてくれるかといったことも含めて、この時のマリアにとって、この受胎告知は、場合によってはマリア自身のいのちの危険さえ引き起こしかねないできごとであったはずです。このとき、マリアが天使の知らせを受け入れることは、神の子を身ごもることに伴って起こる、それらの困難をもまた引き受けるということでもありました。
最終的にマリアは、天使の言葉に励まされ、「お言葉どおり、この身になりますように」という言葉で、その知らせを受け入れます。おそらくその先に起こることへの不安がなくなったわけではないでしょう。ヨセフとの関係、周りの人からどのように思われるか、また、まだ人として未成熟な自分が母となっていくこと…マリアは、これから自分の身に起こること一つ一つを生きていくことになります。
私たちがマリアの中に模範となるものを見るとするならば、それは伝統的にマリアに付加されがちであった「清らかさ」「純潔」といったイメージではなく、このとまどいや恐れを抱えながらも、自分の中で始まろうとしている神様の救いのみ業を受け止めた、その「神に信頼して歩みだす姿」ではないでしょうか。
そしてその中で、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力が」マリアに宿り、マリアを包むのです。これから、自分に起こることを引き受けていこうとするマリアの中に、生きて働く神のいのちが宿っている。マリア自身はただの少女にすぎませんが、しかしそのマリアをとおして、確かに神様のみ業が進んでいったのです。
今から2000年前、少女マリアの中で始まったできごとによって、この世界のただ中に、神のいのちが受肉しました。神は、私たちの世界のただ中で、ひとりの小さな少女の中から、救いのできごとを始められました。私たちもまた、その神様のいのちに信頼したいと思います。私たちの現実の中にも訪れてくださる神様のいのちの働きを信じ、その方が与えてくださる人生を、勇気をもって引き受けて歩みたいのです。
「受胎告知」エル・グレコ作・1590年・油絵・大原美術館蔵