人を赦すということ
「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイによる福音書18・35)
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」というペテロの問いは、自分が誰かを赦すなら、どれだけ赦すべきか、(あるいは我慢すべきか)が焦点です。
それに対してイエス様の答えは、赦されたいと願うならば、赦すことをせよ、というものです。ペテロの立場はあくまで、自分が赦す側であり、赦される、あるいは赦されている側にはいません。赦すか赦さないかを決めるのは自分になります。しかし、イエス様がたとえで答えたと同時に問うているのは、あなたは赦される立場にはいないのかどうかです。
ここで、私が思い出すのは、姦淫の罪で女性を告発した人々とファリサイ派に対してイエス様が投げかけた質問です。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」
そして、人々が去って行ったあとでイエス様は女性に向かっていいます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 罪の告発と断罪をするときに、自分を省みることが問われているともいえます。
たとえに登場する王の最終的な怒りは、負債を抱えていた家来が、王から憐れみをかけてもらいながらも、自分は仲間の一人に憐れみをかけることもなく、無慈悲な仕打ちを行うことで引き起こされます。王の前にひれ伏し頼み込んだ家来の「必ず返します」という誠意を、王は信じて、彼を赦し、借金を免除するのです。しかし、家来が仲間にしたことは、彼の見せた誠意が見かけだけのものだったということを表しています。心の底から表すのではない見せかけの誠意、表面的な謝罪は、赦されることはないのです。
イエス様のたとえが示しているのは、赦しの背景には憐れみがあるということです。相手の立場や状況を推し量って、心動かされることが相手を赦す根拠なのです。
たとえ話でも、王自身が、貸しているお金が戻ってこなければ大きな損害を被る、というリスクを負っていることを知っています。家来も、本来ならその借金を返さなくてはならないことを認めるところから、すべては始まります。
つまり、借金を罪と言い換えれば、罪を犯している人間が、罪を罪として認めることがなければ、赦しも起こらないのです。赦すとは、負債や罪をお互いが認めたうえで、反省している相手の立場をよくよく考えて、自分もリスクや痛みを引き受けることから始まるのです。さもなければそれはただの我慢にしかなりません。ペテロの立場に戻ってしまうのです。あるいは相手に対してよほどの優越感を持とうとするかです。でもそれでは無理が生じます。そして、何かの形で、自分の人生がその後も怒りや恨みといった不快な感情に支配されてしまうことになりかねません。
自分に対して不正を行ったり、罪を犯した者を赦すことが、自分自身で出来るかどうかは、判りません。しかし、自分自身がそうした負の感情から癒され、解放され、自由にされることは必要です。
負の感情から癒されるためには、私たちはイエス様に祈ることと共に、具体的な助けを与えてくれる仲間を必要とします。自分に罪を犯した相手に対する怒り、痛み、悲しみ、恨み、わだかまりなどを、聴き、受け止め、その負担を担い合って、時には執り成し祈ってくれる仲間の存在。その手助けのもとに、私/あなたが負ってしまった心の重荷を軽くできるとき、私たち一人一人は、「私に罪を犯した者」と向き合うことが出来ていくし、その罪を赦すことが可能になるのかもしれません。少なくとも自分が負の感情に支配されない勇気をもつことができるのかもしれません。
私/あなたを「心から」無限に赦し、愛してくださるイエス様がおられます。私/あなた自身の罪を赦すために、十字架に架かられたイエス様がおられます。私/あなたを「心から」受け入れ、支え、守り、励ましてくださるイエス様がおられます。
人が自分の罪と向き合い、赦しを請い、またそれを赦し合うことの背後に、このイエス様による憐れみと赦しがあることを覚えていたいと思います。