今日を、明日を生きるために
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章25~30節(28節))
一体どれだけの人がこれまで、このイエスの言葉に癒され、励まされ、導かれてきたのでしょうか?
その疲れの原因はともかく、とにかく「疲れている」すべての人に向けてこの言葉は語られています。もちろん、一義的には2000年前のイスラエルに住む人々に向けてでしょう。マタイによる福音書11章はイエスの宣教の記述にはじまり、洗礼者ヨハネの弟子たちとのやりとり、そして彼についての解説の後、コラジンにはじまりカファルナウムまで、イエスが数多くの奇跡を行ったにもかかわらず悔い改めなかった町々を叱り、そして神のみ心が知恵ある者や賢い者ではなく、幼子のような者に示されたことを明らかにしたうえで、このイエスの言葉が語られています。このことから考えると、「疲れた者」とは、洗礼者ヨハネの言葉にも、イエスの宣教の業によっても、悔い改めなかった人々、知恵ある人、賢い人によって、その疲れる原因を与えられた人々の事かもしれません。彼らは自らは天まで上げられると思っていた人々、自らは知恵ある賢いと思っていた人、神に対して謝ることをせず、思い上がり、自分の知恵や力を頼りにする、そんな人々によって、重荷を負わされたのです。その人々とはファリサイ派や律法主義者、宗教的指導者のことであったのかもしれません。彼らによって「罪」を負わされた人々、圧政によって厳しい生活をしていた人々を、マタイによる福音書に多く見ることができるからです。イエスはそんなファリサイ派や律法学者と対峙し、神のみ旨を伝え、そして彼らによって「罪」を負わされた人々を癒し、救い、生きる力を与えられたのです。
イエスによって癒され、救われた人々には明日がありました。だから「休ませてあげよう」と言われているのでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」この言葉は、臨終の言葉ではなく、今日を生きる人々に向けて語られているのです。そしてまたイエスは続けます「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と。
イエスの目から見れば、時の指導者たちは神に対して、人に対して、粗暴で険悪、傲慢な人々であったのでしょう。必要以上に神に求め、人に強いていた、そのことでたくさんの人が重荷を負わされ、疲れていたのです。だからこそ、イエスに学ぶように、多くを求めず、強いることをせず、ただイエスに聞くこと、それが父なる神を知ることになるのだと、イエスは言うのです。
なるほど、だからこそ、この言葉に私たちは癒され、励まされ、導かれるのです。もちろん私たちのまわりには律法学者やファリサイ派はいませんし、直接的な圧政に苦しめられているとも言えないでしょう。しかし私たちは、傲慢で、険悪で、自らの正しさや、知恵や力に頼る人々によって、また社会によって、どこかで無理を強いられ、何がしかの圧力に疲れを感じているのではないでしょうか?またもしかしたら、自分自身がそのように無理を強いたり、圧力をかけたりしているのではないでしょうか?そしてそのことによって、重荷を負い、生きることに疲れてしまっているのではないでしょうか?
「もしそうであるならば、私のもとに来なさい。あなたが今日を生きるために、休ませてあげよう。あなたが明日を生きるために、柔和で謙遜な私から学びなさい。」イエスはそんな私たちに、2000年前から今日まで、そしてきっとこれからも、このように語りかけてくださっているのです。