あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川
コロサイの信徒への手紙1・17
私はこの7月に38年間の牧師としての務めを終えることになりました。突然の心臓病のためでした。思えば最初の任地が仙台、そして最後の任地も仙台でした。
その仙台を去る日、私は心の中に魯迅の言葉を思い巡らしていました。魯迅は仙台にゆかりの深い作家・思想家です。彼の「絶望の妄想なること、まさに希望と相同じ」(※1)という言葉をです。彼は絶望も希望も同じく妄想だと言うのです。実に衝撃的な言葉。この魯迅の言葉は、今、主のご降誕を希望の中で待っている私たちには正反対にある言葉のように感じたのではないかと思います。なぜなら希望も絶望と同じく虚しいものだと彼は言っているからです。この言葉が私の頭から消えなかったのです。コロナで閑散とした新幹線の中で私はこの言葉を思い巡らしていました。
電車が福島にさしかかった頃、妻が隣で突然「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。智恵子抄。うふふ。」(※2)と笑うのです。長く私と一緒に教会に仕えてきてくれた妻の変わらない笑顔に私は「そうか、魯迅の絶望の妄想なること、まさに希望と相同じという言葉は絶望も希望も同じく妄想だと彼は言っているのではないぞ」と気がつかされたのです。私たちが今、何かに絶望を抱いていて、それを自分で絶望としてしまうなら、希望もまた虚しいもの、絶望と同じものになってしまうということを魯迅は言っているのではないかとそう思ったのです。逆に絶望の中に在っても、希望を失わず、希望を持ち続けるならば、絶望は決して絶望ではなくなるのです。つまり、ポイントは、何が真の希望なのかという事なのです。
私たちにとって真の希望とは何か。それはキリストです。クリスマスに生まれ給う主イエス・キリストです。今マリアの胎に神の御心・御旨によって宿っている主イエス・キリストなのです。その御旨・御心とは私たちの救いです。それが、マリアがヨセフによってではなく、聖霊によって身ごもったということの中味なのです。主が聖霊によって宿ったのでなければ、主は私たちの真の希望とはなりませんでした。何故なら、それはヨセフとマリアの子であって、神の御子ではないからです。神の御子であるから主イエス・キリストは私たちの救い主・真の希望なのです。
今私たちは主の来り給うを待っています。アドヴェント。それはまた、主の十字架を思うときでもあります。なぜなら、主がお生まれになったのは、十字架におつきになるためであったからです。人間には必ず誕生と死があります。命ある者には、必ず誕生と死があります。初めがあることは嬉しいことです。しかし終わりがあることはとても悲しいことです。しかしその死を打ち砕くために、キリストは十字架にお付きになられました。主は、私たちを死からお救いになるためにお生まれになられたのです。私たちの救いはこのキリストの受肉から始まります。私たちがクリスマスを待つのは、真の神が真の人となって、この世に来られるからなのです。そしてこの事実は、天の使いが「あなた方のために救い主がお生まれになった」と告げたように「民のすべてに及ぶ」のです。私たちはこの救い主・キリストを迎えるとき、罪と死から救われます。慰めと喜びが与えられます。絶望が希望へと変えられるのです。だから私たちは無残に十字架にかかって死に、その死によって私自身の罪を赦し、復活して私たちに命の約束をしてくださり、希望を与えてくださった救い主イエス・キリストの誕生を祝う。それがクリスマス。
「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」これはコロサイ書1・17の言葉です。私たちの存在は、命は、キリストによって支えられているのです。キリストは私たち一人一人の内にどんな時でも共にいてくださいます。だから私たちに絶望はありません。キリストがいつも私たちと一緒にいてくださるので、たとえ私たちが「死の影の谷を歩もうとも」私たちに絶望はないのです。在るのは希望。絶望ではなく希望なのです。
編集部註
※1 魯迅「希望」、「野草」(1927)所収参照
※2 高村光太郎「樹下の二人」、詩集「智恵子抄」(1941)所収参照
日本福音ルーテル教会牧師 太田一彦