主に献げて委ねる
(ヨハネによる福音書6章11節)
「パンの奇跡」は四福音書のそれぞれが物語る唯一の奇跡です。弟子たちにとってこの奇跡ほど印象深いものはなかったのでしょう。日が傾きかけた頃、ベトサイダの「人里離れた」(マコ6・35)草地で起こったあの出来事の消息を思い巡らします。それは私たちのこころざしを主に信頼して委ねたときに、主が私たちの思いを超えて豊かに用いてくださった奇跡のように思われます。
四福音書の内でヨハネだけが主イエスと弟子のフィリポやアンデレとのやりとりを実に生き生きと伝えていて、これは現に起こった出来事だったと感じずにはおられません。
その日、主はご自分を慕ってくる群衆を見て憐れまれ、この辺りに土地勘のある「フィリポ」(ヨハ1・44)に「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハ6・5)と尋ねました。ヨハネ福音書は主が「フィリポを試みるため」(ヨハ6・6)にそのように問われたと述べています。
するとフィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(ヨハ6・7)と婉曲に断りました。200デナリオンは労働者の半年分以上の賃金に相当します。たとえ少しずつ配るとしてもかなりの金額です。フィリポは主のこの群衆への「深い憐れみ」(マコ6・34)に共感したものの、とても現実的ではないと結論したのでしょう。他の弟子たちも同じ考えだったようです。
共観福音書では、ここで弟子たちは「人々(群衆)を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べ物を買いに行くでしょう」(マコ6・36、マタ14・15、ルカ9・12)と進言し、これに対して主は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(マコ6・37、マタ14・16、ルカ9・13)とお答えになります。
主と弟子たちとのこうした会話は側にいた人たちにも聞こえたのではないかと想像します。群衆は15キロもの距離をやってきたと考えられます。群衆の中には自分や家族のためにパンや魚を持っている者がいても不思議はありません。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という弟子たちへの言葉を、「主はこの私にも呼びかけられた」と聴きとって心を開いた家族があった。彼らは主を信じて、持っていたパンと魚を主にお委ねしようと決意した。だから一人の少年が立ち、精一杯の献げものであるパンと魚を差し出してくれたのだと思います。
アンデレは急いで主に報告します。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」(ヨハ6・9)。そしてつぶやきました。「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(ヨハ6・9)。アンデレは「これだけでは不十分だ」と思い込んでいます。私たちもついこういう見方に陥ります。
しかし主はこの心からの献げものを喜んで受け取られた。そして弟子たちに命じておよそ5千人もの人々を座らせると「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(ヨハ6・11)。四つの福音書が異口同音に人々は満腹した、「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(ヨハ6・13、マタ14・20、マコ6・43、ルカ9・17)と証言します。一体何が起こったのか?四つの福音書が、パンと魚を持っている家族がいた、それが主に献げられた、主はこの献げものを神に感謝し、祈り、人々に分け与えられたと語ります。
「あなたがたがやしないなさい」とのみ言葉を、あの子どもの家族のように聴き取り、自分たちに出来る精一杯を、主に献げて委ねる人々が、次々と起こされたとしたらどうでしょうか。主イエスによって私たちが神につながるとき、そこにはきっといつの時代でも、今も、あの時のように「神の国」のような世界が実現します。
日本福音ルーテル湯河原教会・小田原教会牧師 岡村博雅