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四旬節第一主日の説教

「それから、〝霊〟はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」

(マルコによる福音書1章12~13節)

 教会の暦では今日から四旬節」とか「受難節」とか呼ばれる季節が始まります。この四旬節の最初の主日では、教会ではイエスの荒野での誘惑の記事が伝統的に読まれてきました。それは、このイエス・キリストの誘惑の出来事というのが、単なる誘惑や試練に打ち勝つというようなことではなく、私たちが生きているということの全体に関わること、特に、この世の苦しみや受難と深い関係があるからです。

 マルコはこの出来事を簡潔に表現していますが、マタイとルカによる福音書によりますと、イエスはここで三つの誘惑を受けられたと記されています。第一は、イエスが荒野で断食をされている時に悪魔がやって来て、「あなたがもし神の子なら、その石ころをパンに変えたら良かろう」と誘ったというのです。しかし、ここで注意深く聖書を読む必要がありますが、悪魔の誘惑の言葉というのは、パンを食べることではなく、石をパンに変えることです。つまり、生物的に生きることそのものではなく、石をパンに変えるような生き方のことが問題になっています。

 二番目は、高い神殿の屋根の上から飛び降りなさい。あなたが神の子なら、皆が支えてくれるだろう。神が守ってくださるだろうという誘惑です。これは簡単に言えば、私たちが、安心して生きるために神や信仰を利用してしまうという誘惑です。そして、第三番目は、あなたがもし神の子ならば、世界のすべてをあなたに委ねる。あなたは栄華の中に包まれ、高い地位を得ることが出来る。そういう誘惑です。

 しかし考えてみると、これらの三つのことは、誘惑というよりは、むしろ、私たちが積極的に良いことだと思って求めていることです。私たちは、少なくとも食べることに困らない生活をしたいと望んでいます。また、私たちは、権力や権威というほどではないにしても、人から良く思われたいし、ある程度認められたいと思っています。そして、私たちは危険を避け、出来るなら、安全で、安心して過していきたいと思っています。食べることに困らず、人から尊敬され、安心して暮らしていくということは、私たちが、むしろ、こちらから、そうしてもらいたいと思うようなことばかりです。

 しかし、聖書はこれが誘惑だと言うのです。これが何故誘惑なのかと言いますと、それは、イエス・キリストの十字架の場面に出てくる人たちのことを考えてみるとよくわかります。十字架の場面に登場する当時の宗教的・政治的指導者たち、ローマの総督や兵士、そして大勢の群衆など、その人たちの姿を見ると、こういう人たちの生活というのが、愛することではなく、あるいは信じることではなく、本当は恐れと不安に満ちていることに気づかされるのです。豊かになりたいがゆえに、安心して暮したいがゆえに、そして、他の人に認められたいがゆえに、恐れに捕らわれ、不安に捕らわれていることに気づかされるのです。
 さてそこで、イエス・キリストを見てみたいと思います。キリストの生涯というのはどういう生涯だったかを考えてみましょう。イエスの十字架と復活の生涯が示すのは、悲しみや苦しみを抱えても、なお、人は生きていけるし、貧しくても、物が無くても、たとえ病気であっても、能力が無くても、私たち人間が幸せになれるということを教えるものです。イエスは、まさに、ただ神の愛と恵みに堅く立つことで、本当に深く豊かな道を示されたのです。

 私たちは、無意識に、聖書が誘惑として示したことを望んで、大切なものを失い、不安にかられ、恐れに駆られて生きているのかもしれません。試練はいつもあります。苦しみはいつもあります。お金がない、人から良く思われない、他の人から理解されない、いつも不安定で、不安の中に生きています。しかし、その中で神の言葉に立つことで本当に豊かに生きる道がある。私たちは、その神の言葉を聞きながら日々を本当に過すことができればと思います。

学校法人九州学院副院長・チャプレン 小副川 幸孝

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