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バイブルエッセイ

「何のために、手を洗う?」

「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。」マルコによる福音書7・1

 「夏休み 休めていません 父と母」。子どものころは疎ましかった9月1日が、今は甘美に響きます。高1を筆頭に、中1、小4、小2、年長のわが家の子どもたちは、全力で夏休みを過ごしました。早朝こそ、ラジオ体操組と朝寝組に分かれますが、朝食後は「心と精神と力を尽くし」、炎天下で部活や昆虫採集、部屋遊び。宿題への努力は「からし種」一粒。ひと夏で米一俵(60㎏)が無くなる台所。それが夏休みの日常でした。シオン教会では、四つの礼拝所があります。毎週、土曜昼からは山口県の柳井礼拝所、日曜は徳山と防府、火曜夜は島根県六日市の主日礼拝です。県を離れることはなかなか難しいですが、山口・島根県では夏休み期間中も特別に、河川プール、山と海、磯の利用を無料としています。夏空や星座も見放題、朝の新鮮な空気も吸い放題です。山口県、島根県、一度、いかがですか。

 さて、話は少し変わります。夏の期間も右記の出入りがありましたので、家では帰宅時には手洗いを義務としています。唐突に硬い表現を記しますが、衛生規定は集団生活を維持するために、欠かせません。「みんなを守るため、手洗いをする」のです。この日の聖書の背景である「衛生規定」も、初出は「荒野の40年」と言えます。この日の「食前の手洗い/食器・祭儀用の器の洗浄(3節)」は、原型は出エジプト30章17節からと見ています。祭儀を担当する人々のための規定です。しかし問題は何か。出エジプト記記載の規定を尊重しつつ、規定から派生した「昔の人の言い伝え(3節)」を、聖書と同等の拘束性を持つものと見なした、ということです。

 今日の聖書の結びで主イエスは、「無にされた神の言葉(13節)」と話されています。主イエスがこの時言われた「神の言葉」は、エルサレムから来た律法学者たちの実情(3~4節)と指摘点(5節)から考えれば、「出エジプトの事柄」である神の導きの「出来事、事柄」でしょう。それが無にされたと主は言われます。出エジプトの出来事の骨子は、神からの守りを信じ、相互に配慮することです。言い方を替えれば、神の前に心を開き、他者を隣人として生きることです。しかし彼ら律法学者は、根本を見失い、「言い伝え」を典拠として自動的に「洗わない手は宗教的な汚れ」と見なすのです。具体的に律法学者は、エルサレムから遠路、数人がかりで直線距離約100㎞のゲネサレト(6章53節)を訪れます。彼らはさらに、ゲネサレト地域内の主と弟子たちの居宅を探し、そこを訪れ、規定違反を見止め、告発するのです。律法学者のそのような姿勢、生き方、語る内容が、出エジプトを導いた神の愛を見失っていることを主は語ります。

 そもそも主イエスはこの時、ガリラヤ湖西岸地域の町村を回り、み言葉を伝える働きをなさっていました。その働きの内実は、「みんなを守るため、あなたは生きる」ことの告知でした。表現の順番を替えれば、「あなたが生きていることは、みんなのためになる」「あなたのいのちは、隣人の喜びとなる」ということを主は伝えたのです。もちろん、主は対話や状況を踏まえて、さまざまな形でそのことを伝えたのです。今日の聖書には明確に登場しませんが、直後の聖書箇所に登場する「異邦人」と呼称された方々、直前、直後の「病という状況にある方」にとっては、主イエスの言葉は、何よりも助けになったことと察します。

 このみ言葉から私たちが覚えたいことは三つ。一つ目は、諸所を巡られた主イエスは、今日もまた、あなたを訪れて下さるということ。二つ目は、困難な「荒野の40年」の旅路を導いた神のみ手が、今日もまた、あなたと共にあるということ。三つ目は、既にあなたは、誰かの隣人なのです。残暑の折、そのことを覚えたいと思います。

Sieben Werke der Barmherzigkeit フランス・フランケン (1581–1642)

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