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バイブルエッセイ

「わたしたちはキリストの体」

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」  (エフェソの信徒への手紙4・16)

 この春神学校を卒業し、牧師としてみのり教会と岡崎教会に着任してから、3カ月が経ちました(執筆当時)。豊橋市の牧師館に住みながら、田原市、岡崎市にある各礼拝堂にも行き来する日々を送っています。初めての経験に戸惑いを覚えたり、やる気が空回りして失敗したりすることもありますが、教会員の皆さんに助けていただき、徐々に慣れていっているところです。だいぶ前のことになりますが、私が初めて就職をした最初の新卒時代にも、やはり戸惑ったり、空回ったりしていたことを覚えています。あの頃に比べればかなりずぶとくなったものの、2度目の新卒時代を与えられて初心にかえることができるのは、とても嬉しく有難いことです。
 この3カ月の間に、対面や電話などで、教会員の方々のお話を聞かせていただく機会が増えました。皆さんの普段の穏やかなご様子からは想像もできないほど大きな試練や困難を経験して来られたことや、いかに信仰が人を支え導くかということを教えていただいています。複雑で奥深い人生の物語のほんの一部分に過ぎないかもしれませんが、出会って間もないこの新米牧師を信じてお話してくださる時、そこには確かに神様が共におられ、働いてくださっていることを思わずにはいられません。
 そのようなこともあり、毎週の礼拝や礼拝後の交わりの時間は、私にとってますます感慨深い時となっています。会衆席に座っておられる方々を見渡す時や、礼拝後に作業に勤しんだり、笑い合ったりする姿を目にするふとした瞬間に、豊かな個性を持つお一人お一人が、唯一のキリストによって一つに結ばれていることの尊さを思います。そして「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」というエフェソ書4章16節のみことばを思い出すのです。「キリストの体」とは、教会の多様性と一致を表します。全く違う経験をして生きてきた、性格も考え方も異なる多様な人々が、キリストと出会い、招かれて、礼拝に与る。肩を並べて神を賛美し、みことばを聞き、心をひとつにして祈る。交わるはずの無かった人々がキリストによって交わり、互いを思いやったり、助け合ったりするうちに、次第に互いにとって欠くことのできない大切な存在となり、キリストの体である教会を造り上げてゆく。その現場に遣わされ、人間の力では成し得ない神様の業を目の当たりにするのは、誠に大きな喜びです。
 とはいえ、教会はこの世で生きる私たち人間の集まりですから、穏やかな時ばかりではないでしょう。「キリストの体」が怪我や病にむしばまれ、平安が失われることもあり得ます。私自身、その時が来れば、もはや笑っていられなくなるのかもしれません。聖書は私たちが「神から招かれ」(4・1)ていると励まし、「その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(4・1~3)と勧めます。それは特別な行いではありませんが、ただ自分の利益のためだけに生きる者には難しいことです。神様の招きは、これらのすべてを満たされるイエス様の十字架のもとへと私たちをいざない、そこから出発するよう導きます。私は希望を抱いています。これから何が起こるかを恐れるよりも、主の憐れみに依り頼み、今与えられている賜物を生かし、キリストの心を表してゆくことを選びたいのです。遣わされた教会の人々と共に。

三人の天使に支えられたキリストの体 1600〜1610 作者不明 Kunsthistorisches Museum

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