るうてる2021年9月号
「隠されている恵み」
日本福音ルーテル大森教会牧師 竹田孝一
「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」(マルコによる福音書7章25節)
高校生の時、ネフローゼ症候群を発症し、長期入院を繰り返していた私の治療のために両親を心配させ、苦労をかけさせていたことを今でも申し訳なく思っています。こどもが病気であるということは親には大変に辛いもので、どうしてもこどもの病気が癒されることを願わずにはおられません。この福音書の物語の娘の癒しを願う母の必死の求めは、私の母の必死な求めと重なってきます。
しかし、この親の必死さに対してイエスの態度、言葉は私には理解できません。「娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。』」(27節)とこの母親の願いを拒絶するのです。
「イエスのことを聞きつけ」とはイエスの良い評判であり、福音であり、恵みの言葉であったはずです。これを聞きつけてやってきたのですが、しかし、恵みの言葉としての福音が、一見それとは思えないような現れかたをした。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と、なんと残酷な拒絶でしょうか。これが試練です。試練は、自分が神から見捨てられたという疑問が起き、神の愛から遠ざけられたという関係が生じてきたとき起こるものです。
しかし、この母親はこの試練をみごと超えていくのです。母親としての、自分の子どもを癒してほしいというイエスへの願いが強ければ強いほど、イエスの拒絶はどれほど辛いものであったでしょうか。母親は、自分がフェニキア人、異邦人であること、イエスの「子ども」でないことをどんなに呪ったでしょうか。しかし、全ての思いを捨て去り、ひたすらイエスの言葉をいただこうとしたのです。主イエス・キリストへの信頼しか自分には残っていないことを母親は試練の中で選び取ったのです。
試練がある、しかし、その試練の中で、信仰者である私たちは、信仰とは何なのかと問われ、信仰を深めさせられていく恵みのときとなるのです。
試練にあるこの母親は私たちに教えてくれているのです。信仰、それは徹底的な神のみ言葉、つまりイエス・キリストへの信頼であるということを。
今、母親は、万事休すという試練の中にたたされている。しかし、なおもイエスに救いを求め、イエスにひたすら向かう母親に対して、「それほど言うなら、よろしい。」というイエスの言葉には、母親の願いを聞こうとする神の、イエスの、強い意志・気迫が伝わってきます。
神の救いが私から失われ、無関係になっているのではないかと思われる試練の時・場にあって、キリストの恵みが、答えが隠されています。
「女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた」(30節)。
新型コロナウイルス感染症の拡大という中で、自分の命さえどうなるか分からない日々があり、礼拝もままならぬところで、自分は神の恵みと無関係ではないかという信仰の試練の内に私たちはいます。が、イエスのその足もとにひれ伏し、試練の内にこそ隠された神のみ言葉、恵みがあることを信頼して、「たとえ、明日世界が終わるとしても、それでも今日私はリンゴの木を植える」という今日の一歩を主イエスの御心の内に歩みだしましょう。
エッセイ「命のことば」 伊藤早奈
⑱「におい」
「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(エフェソ5・2)
これは秋の匂い、これは冬の匂い。私たちは匂いのないものの匂いを感じたり、匂いが思い出を運んできたりします。昔歌った歌に「おかあさん、なぁに。おかあさんていいにおい。せんたくしていたにおいでしょ。シャボンのあわのにおいでしょ。」という歌があります。季節の匂いについて思いを馳せていたら、何度も何度も心の中でこの歌が流れました。
そしてこれから訪れる秋には金木犀が香ります。金木犀の匂いは私になぜか運動会を思い出させます。先生が鳴らすかけっこのスタートの音、子どもや親の歓声、立ち上る砂埃の匂い。冬は雪の匂い。春は紅梅や沈丁花、クチナシの花など。紅梅が香ると幼いころに親戚と集まって祝ったひな祭りを思い出します。夏は新緑や風の匂い。キリがなく広がる思い出はきっと一人ひとり違うのでしょう。
イエス様って何の匂い?考えてもみませんでした。だから今考えてみます。
「愛の香り?」イエス様は思い出を思い出させるような決まった匂いではありません。一人ひとりが違ってていいのです。今を生きているあなたに「あなたはそのまま生きていていいんだよ」と優しく語りかけて下さる。それがイエス様の匂いなのかもしれません。
(日本音楽著作権協会(出)許諾第2106931-101号)
議長室から 大柴譲治
左手のピアニスト~舘野泉
「後の世代のために/このことは書き記されねばならない。/『主を賛美するために民は創造された。』」(詩編102・19)
芸術の秋。舘野泉というフィンランド在住のピアニストがいます。2002年1月のタンペレでの演奏会、最後の和音を弾き終わったところで脳溢血に倒れます。65歳。以降は後遺症のため右半身不随。リハビリに励みますが右腕は動きません。1年半ほど経った頃に米国留学中のヴァイオリニストの息子さんが「お父さん、このような楽譜を見つけたよ」と左手のためのピアノ曲をそっと傍らに置いてくれました。その時はピンときませんでしたがある時ハッとします。「そうか、両腕でなくても、片腕でも音楽は表現できるのか。」すぐに日本の友人の作曲家に電話をして、1年後に日本で復帰リサイタルを開くからと左手のためのピアノ曲を作曲依頼。2004年に東京・大阪・福岡・札幌で「左手のピアニスト」として演奏会を開きました。病に倒れて2年半後のことでした。
舘野氏の言葉です。(40周年の演奏会が)「終わって一ヶ月も経たないうちに、演奏中にステージで脳溢血に倒れ、半身不随になった。もう、演奏家としては終わりだと思った。二年半の闘病生活を経てステージに復帰したとき、自分は左手のみで演奏するピアニストになっていた。でも、また演奏が出来るということがただただ嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、自分が左手だけで演奏しているとか、不便不自由であるとか、そのようなことは一切感じなかった。弾いているのは音楽なのである。片手であろうが両手であろうが、手が三本であろうが、そんなことはまったく問題にならない。ただ、演奏出来る曲目が少なかったのは事実である。しかし、少なければ書いてもらえばよい。間宮芳生さんの《風のしるしーオッフェルトリウム》が邦人初めての左手の作品として埋めれ、林光、吉松隆、末吉保雄、谷川賢作など多くの作曲家達がそれに続いた。‥世界の各地からも作品が寄せられている。‥限りなく豊かな思念、詩情、情感、夢が、そして人の心を満たし動かしてくれるものが生まれ続けている。なんと有難いことだろう。」(演奏生活50周年演奏会ちらしより)
詩編102編には「祈り~心くじけて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」とありますが、その19節は深く心に響きます。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」そこには苦難を味わい尽くした者だけが到達できる次元がある。主を賛美するためこの人生は与えられた!私たちも与えられた今ここを大切にしてゆきたいのです。
「教会讃美歌 増補」 解説
⑮増補1番「み使いの群れが」・増補2番「なぜ恐れるのか」
讃美歌委員会 松本義宣(東京教会牧師)
1.増補1番「み使いの群れが」
ルターのクリスマスの賛美歌と言えば23番「天よりくだりてうれしきおとずれ」が有名です。1534年のルター家のクリスマス、幼い子どもたちと共に歌うため、当時よく知られていたなぞなぞ歌を下敷きに作ったと言われます。ルター作の今の旋律は1539年の歌集のものです。ベージェント形式で、子供たちも「天使」等の役割分担で歌っていたようです。
この増補1番「み使いの群れが」は、いわばその続編として作られた歌です。1542年、長女マグダレーナが13歳で天に召されます。悲しみにあるルター家、その年のクリスマスは、彼女が担当した部分(天使?)を含む、これまで歌い続けていた歌が歌えなくなります。恐らく、悲しみの中でルターは、新しくこの歌を作詞したのだと思われます。旋律は同じものが使われたようですが、今回の増補版では、別の旋律を付しました。ドイツ福音主義教会賛美歌(EG)25番で採用された曲で、1535年のヴィッテンベルク歌集に載った民謡調の曲です。先の23番の別旋律として歌われているもので、どちらの旋律でも歌えるように訳してあります。お馴染みの23番(18番も!)の方を用いてもかまわないので、ルターが、楽しいクリスマスだけでなく、み子の降誕を心に刻んだこの歌、殊に4節「罪も死も消えろ。神様が味方。悪魔が襲っても、み子イエスが味方。」5節「み子は見捨てない。信じよう主イエスを。試練の時にも、委ねよう主イエスに。」を味わいましょう。
2.増補2番「なぜ恐れるのか」
1541年12月12日に成立したという信頼にたる伝承がある歌です。証言者は作曲家であり、ルターの友人で協力者だったヨハン・ヴァルターです。14世紀から愛されてきたローマ・カトリックの賛歌(Hymnus)で、各節がアルファベットで始まる A solis ortus cardineの最後に当たる8,9と、11と13節の Hostis Herodes impie(不信心にも敵ヘロデを)を翻案したもので、ルターは1節を翻訳、2~5節を作詞して、顕現日(1月6日)の祝日の賛美歌として作られたものです。旋律は43番「もろ国びとらよ、目覚めて歌えや」と同じもので、今回はより古い形のものを採用しています。顕現日として、当方の占星術の学者の来訪が2節で歌われ、また、もともとイエス様の洗礼も覚える日であったことから3節では洗礼に言及があり、また4節ではカナの婚礼(水がぶどう酒となったしるし)も覚える内容になっています。
世界の教会の声
浅野 直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷・スオミ教会牧師)
スウェーデンのインターネット牧師②
ルーテル世界連盟(LWF)がスウェーデンのシャルロッテ・フルックルンド牧師にインタビューした記事(2021年3月19日)の続きを紹介します。
(元の記事のURL)
https://www.lutheranworld.org/news/sweden-internet-pastor-engages-faith-seekers-online
—牧師と出会える場だと気づくのはどういう人たちでしょうか。
そうしたニードがある人たちです。オンライン上に、ソーシャルメディアで教会と会話をしたがっている人たちがいたんです。この仕事も最初はパートタイムだったのですが、オンラインで牧師と対話したい人が現実にはもっとたくさんいたのです。牧師に質問して答えがほしいという要望がさらに増えていったので、とうとうスウェーデン教会はこの働きのためにフルタイムで私を任命しました。
—オンラインでつながる人はどういう人たちでしょうか。
スウェーデン教会のFacebookにやって来る大半の人は55歳より上で、わずかに男性より女性のほうが多いです。InstagramとTwitterですと、Facebookのような年齢差や性差はないのですが、そちらだとフォロアー(つながり続ける人)は若い世代が幾分多いように思います。
Instagramは13~20歳より若い世代を対象に起ち上げたのですが、こちらはまだまだです。おそらく私たちが彼らの側に立って話せていないのだと思います。50歳の人よりも20歳程度の人がやったほうがうまくいくでしょう。
—COVID-19以後ソーシャルメディアの利用者は増えましたか。
COVID-19以後、教会のソーシャルメディアは大きく変わりました。なんといっても各教会がこれを利用するようになり、ライブ配信やFacebookに人が集まるようになりました。多くの人々が、オンラインにも自分の教会があると気づいたのだといえます。そこで私と広報担当チームは、週に1回Facebook上で手短な祈りを始めたのですが、これがつながるきっかけになりました。せいぜい3~4分程度のオンラインの祈りですが、利用者の方たちはFacebookの祈りの映像を大きなテレビに映して、ローソクをもってきて、たぶんコーヒーカップもそばに置きながら、ひとときを過ごしています。そうすることで礼拝しているのと同じ気分になれますからね。
パンデミックの間に寄せられる質問内容も変化しています。悩みや不安、病人や医療従事者のための祈りが増えました。
(次号につづく)
パンデミックの中の教会
東海地区の取り組みから
東海地区伝道セミナー「Zoomでベツレヘムツアー」
徳弘浩隆(東海教区長・大垣教会・岐阜教会・掛川菊川教会・新霊山教会・知多教会牧師)
感染症対策で礼拝や集会が難しく、健康や家族構成の違いから意見の相違もあるでしょう。しかし、「時が良くても悪くても宣教に励む」べく、代替プランを考えました。
海外旅行はおろか旅行も難しいですが、ふさぎ込んでいないで、Zoomで楽しい外国旅行ををと思いました。ルーテル教会は世界中にありますから、聖書の地やルターゆかりの地などいくつも企画できます。
最初はベツレヘム。2005年に日本に招いて各地で講演会をしてもらった知り合いのミトリ・ラヘブ牧師に声をかけました。当時その企画を一緒にした立野先生に相談しミトリ先生にメールするとすぐに返事が来て、3人でZoomで話し合い。「似たアイデアがあったが実行できずにいたが、先生たちが言うならやってみよう」と即決しました。
東海地区の宣教部で話題にすると「ぜひ教区のプログラムとしても」となり、渡邉克博宣教部長が取りまとめや現地連絡を引き継いでくれました。
ミトリ先生が公開しているYouTubeでは、イスラエルはワクチン接種が進んでもパレスチナは進まない事、ロックダウンで観光産業が止まりパレスチナ社会が経済的に大変厳しいことが報告され、このパンデミックが終わったら、ぜひベツレヘムに来てください」と。しかしコロナ禍でもZoomで「訪問と交流」はできると思ったのです。
企画の全体像は、ベツレヘムについて聖書から学ぶことと、それ以降の世界史の中で何が起こり今どういう状況かなどを3回シリーズで学び、10月に「訪問交流会」をします。それらを通して信仰や生き方を学びます。Zoomが難しい方は教会で一緒に参加したり、日程が合わなければYouTubeで追いかけ受講もできます。
初回までの申込者は110人程でした。期日までに申し込まれた方にはベツレヘムからお土産もあります。教区補助金があり個人負担を少なくしました。他教区の方でも適応されます。
さあ、ベツレヘムに行きましょう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではありませんか!
コロナ禍での女性会
連盟総・大会
「できるしこですたい」
中原通江(女性会連盟24期会長・西条教会)
3年に1度の再会を楽しみにしている会員の思いにフタをして、熊本で予定されていた総・大会開催を断念する苦渋の選択をしました。第1回総会(1949年)以来初めてのことです。それに代わり、総会の部は書面議決とし、4月中旬に総会資料と「表決書」を発送。6月8日に東京教会で開票し、正議員171名中、投票総数159票で総会が成立。25期の主題「主イエスのまなざしと出会う」、副主題「神様に、隣人に、そして社会に仕える」などの議案すべてが承認されました。
また、併せて連盟活動に対する「提言」を募集。どのご意見も貴重なもので今後の参考になります。7年後に創立100周年を迎える連盟ですが、今日、社会情勢やルーテル教会の状況も大きく変わってきました。今、求められる女性会像を探っていかなければなりません。
大会の部は慈愛園理事長、潮谷義子氏の講演「人生100年時代・・・未知の時代の到来」。これは6月9日に熊本の健軍協会で現地実行委員会と数名のスタッフを前にご講演いただき、YouTubeでライブ配信しました。7月末には千回を超える視聴があり、大きな反響がありました。先生の深い見識と長年にわたる現場経験に基づく講演は、女性会にとって多くの示唆を得るものでした。
「会員が集って牧師共々会堂で聴いた」という教会も。また、「熊本までは行けないと思っていたが、家に居ながらにして大会講演が聴けて有難い」という声も寄せられました。コロナ以前には当たり前だった、集い、祈り、賛美し、メッセージを聴くこと。これらすべてが恵みの時だったことを覚えます。また同時に、「今、出来ることをする」ことも大事にしたいと思います。潮谷先生の言葉をお借りすれば、「できるしこですたい」です。(講演の動画はまだしばらくの間視聴可となっています。下記URLをご利用ください。)
ルーテル世界連盟(LWF)のセミナーに参加して
谷口和恵(東教区選出常議員・松本教会)
今年6月27日から7月3日までの1週間、LWF主催のセミナーに参加する機会をいただきました。毎日2時間のZoomでの開催でした。本来ならドイツ・スイスへ出向いてのセミナーでしたが、昨年はコロナで延期、今年も延期だろうと思っていましたら4月の終わりごろ先方からZoom開催のメールが入り‥えっ?Zoomですかぁ?私の英語力では厳しいなぁをひるみましたが、そこは持ち前の前向きな性格(おっちょこちょいとも言えます)と好奇心の強さが先に立ち「参加します!」と返事してしまいました。
6月初旬に資料が送られてきましたが、時すでに遅し!ドイツの神学者たちのまるで論文のような資料が2部その他で計50ページ以上の英語のペーパーと格闘することになりました。錆び付いた頭の回転はすこぶる悪く、さすがに同情してくれた夫や友人の力を借りながら何とかセミナーにこぎ着けた次第です。セミナーは『Lay person Leadership in churchー教会における信徒のリーダーシップのあり方ー』を学ぶものでした。
一般社会の在り方と違うのは、神さまの前では牧師を含む皆が等しい存在であり、特にリーダーシップをとる者は誰よりも人に仕える者にならなければいけないということ、それはイエスさまが弟子たちの足を洗う行為で率先して示してくださったことに他ならないというものでした。しかし生まれながらに人に仕えるというタラントが備わっている人はいるのでしょうか?少なくとも私には足りないところです。それでも私たちは教会の中での問題にぶち当たるたびに、祈りつつ神さまの言葉に耳を澄ませ、足りないところは神さまが補ってくださるはずと信じ進む以外方法がありません。そして、お互いに仕え合い、支え合い、許し合えばそこは神さまに祝福された場所になるのだと思います。その喜びは福音を伝える力にもなるでしょう。
今回、ルター派の信仰を同じくする世界中の参加者と出会い意見を交換する中で、多くの学びと気づきが与えられ、また力をもらいました。特にこの厳しいコロナ禍においてどの国もたびたびの礼拝の中止、プログラムの縮小を余儀なくされています。オンラインでの試行錯誤の礼拝の持ち方も日本と同様です。そのような中、今回学びの機会を作ってくださったLWFの働きに感謝しています。
私たちのルーテル教会は世界に繋がっていることを再認識する良い機会となりました。そしてコロナが終息した先に広がる教会の風景が、居場所のない誰かの居場所になり、神さまに用いられ、愛に満ちたものとなりますように!
2010年より本紙レイアウトを担当した中川浩之氏は今号をもって交代いたします。中川氏の長年にわたるお働きに感謝申し上げます。 編集部
第7次綜合方策の紹介⑸
事務局長 滝田浩之
■方策本文より
2.方策作成の意義
個々の教会とそれを束ねる教区からなる日本福音ルーテル教会が、ルター派に立つ教会としてキリストが向かわれるところへ共に出かけて行くために、綜合方策は以下の点から必要とされる。
①「一つの教会・キリストのからだ」としてのルーテル教会の出発点を確認し、一致して共に歩むため。
②個々の教会・教区・全体教会の方向性を示すため。ルーテル教会としての歩むべき道は、来たところと行くところを認識することによって示される。
③「ポスト宗教改革500年」リ・フォーメイション(再形成)する教会。神の前に在っても、社会においても、完成された教会はない。神に生かされている教会として、絶えず新しくされなければならない。向かうべきところにふさわしく教会の使命と仕組みをリ・フォーメイションするために方策が策定される。
④グローバルな宣教を展開するために、日本福音ルーテル教会は総会において今後はアジアを視野にいれた宣教に取り組むべく方針を承認した。これを受けて具体的な展開をはかるため。同時に日本社会における在日外国人の抱える諸問題を学び、取り組む人々への支援と連帯を目指すため。
⑤日本社会におけるマイノリティーの立場の人々の側に立つキリストに出会うことを通して、私たちの向かうべき方向を絶えず確認するため。
3.方策の概要
第7時綜合方策は、以下の表題、主題聖句、基本目標、主要課題、かつ方策前文に明記されている大前提を指針として、日本福音ルーテル教会が、日本のみならず、世界とりわけアジアの地において、キリストの体としてふさわしい宣教の器とされることを求めるものである。
期間 2022年6月から2030年5月
標題 「隣人のために一人のキリストとなる」(隣人と共にあるキリストに出会う)
主題聖句 「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)
基本目標 「教会のリ・フォーメイション(再形成)」
①「ポスト宗教改革500年」を教会のリ・フォーメイションの時とし、宣教態勢の大胆な見直しと教会の構造改革に取り組む。
②出かけていくところでキリストと出会い、留まるところでその福音を鮮やかに伝え、より良く分かち合っていく力を養う。
③教職と信徒による使命共同体の働きを推進する。
主要課題
①教会は人、魂の配慮の場(重要キーワード)
②教区による宣教態勢のリ・フォーメイション
③教区間・教会間の連携
④宣教共同体としてのディアコニア活動との連帯
⑤アジア宣教への取り組み、派遣プログラムの創出
⑥社会的マイノリティーの問題への学びと支援
⑦安心できる教会であるためにハラスメントの問題に取り組む
⑧神学教育のリ・フォーメイション
⑨教会財務のリ・フォーメイション
⑩海外のパートナーシップ教会(協会)との交流を深める
■解説
方策の意義、概要、主要課題が確認されています。
綜合方策は、「総合」ではなく「綜合」の文字が使われていることにお気づきでしょうか。辞書によれば、意味に大きな違いはないということになりますが、過去の方策策定時においては、そこにはこだわりがあったと伝えられています。
日本福音ルーテル教会は、「ひとつの信仰、ひとつの神学校、ひとつの給与」という旗印のもとに「ひとつの教会」であると自身を認識してきました。そして同時に、「個々の教会」、「教区」、「全体教会」をもって「ひとつの教会」であるとも理解してきました。私たちは、すでに日本福音ルーテル教会という一つの教会があることを自明のことのように感じているかもしれませんが、私たちの教会は合同教会であるという歴史的経緯があることを知っておくことは、方策を理解する上でも重要だと考えます。市ヶ谷教会礼拝堂に釣らされている十字架のモニュメントは7つの十字架が重なり合ったものになっています。私たちの教会は7つの宣教団体の合同によって生まれた教会だからです。つまり日本福音ルーテル教会が「ひとつの教会」であるという時、それは一色の「ひとつの教会」があるのではなく、多様な国の背景、また歴史的経緯を持つ多色の(カラフルな!)「個々の教会」、あるいは「教区」が「日本福音ルーテル教会」という一つの旗印のもとに集められているということなのです。よって「特色」、「個性」のある「個々の教会」があることが自然ですし、「一色」に塗り替えていくことが方策の目的ではないのです。先輩たちが「綜合」という言葉に込めた思いもそこにあります。「ひとつの教会」としての大きな枠組み、あるいは方向性を示しつつ、「個々の教会」、「教区」の特色や個性が鮮やかにされていくために「綜合方策」はあるのです。
その「綜合方策」にはっきりと「ディアコニア、アジア、マイノリティー、ハラスメント」という主要課題(方向性・枠組み)が列挙されていることは、本方策の大きな特徴です。様々な課題を負いつつも、私たちはキリストの教会として、小さな群れではありますがキリストの委託を果たす群れとして成長することを「綜合方策」において確認するのです。
オンライン「一日神学校」へのお誘い
石井基夫(ルーテル学院大学学長)
今年もルーテル学院は「一日神学校」をオンラインで開催いたします。日時は9月23日午後1時半から、配信方法は、YouTubeでの限定ライブ配信となります。
テーマは、「その人を支え、ともに生きるために~『総合人間学』とは~」。
昨年、新型ウイルスの猛威に襲われて以来、いまだに感染防止の大原則の中で、教会の礼拝も活動も大いに制限をされています。ルーテル学院でも大学、神学校ともに、学生は基本的には午後の時間だけキャンパスで授業を受けますが、オンラインでの授業も多く、またサークルなど学生活動も制限されたなかで学びを続けています。
こうした今のキャンパスの姿を知っていただくことも含めて、何よりここに集う交わりにこそ「一日神学校」の喜びがあることを思うと、三鷹に皆さんをお招きしたいのです。しかし、感染の状況はやはり深刻で、東京の緊急事態宣言等もいつ解除されるのかわからない現実を踏まえるならば、今年も「一日神学校」はオンラインでの開催とせざるを得ないと決断するに至りました。
ルーテル学院大学が社会福祉教育を始めたのは1976年、今からちょうど45年前のこととなります。当時の間垣洋助学長は、「福祉の仕事は、元来キリストがおこない、また弟子たちにこれをなすように命じた、教会の負うべき重大な使命」と受け止め、福祉分野への人材育成が神から与えられた使命としてこれを担うを言われました。もちろん、ルーテル教会が日本での宣教の始まりの時から、教会とともに福祉施設を作り、困難を持つ方々を支える氏名を担ってきた取り組みがこの言葉を裏付けます。そして、この教育を支えるものは「神の愛された人間」についての福音的理解にあるのだと思います。社会福祉、臨床心理と大学の教育研究の領域が広がる中で、対人支援の専門教育において「総合人間学」と呼ぶものが求めていくところを、今年の「一日神学校」を機会に、共に問い学びたいと思っています。
開会礼拝に始まり、シンポジウム「ルーテルの総合人間学とは何か?~共生の羅針盤を求めて~」、そして、「神学生による神学校紹介」の三つのプログラムとなります。詳細や参加の方法などは大学ホームページ、また各教会に送付されている案内をご覧ください。
皆様のそれぞれの参加をお待ちしております。