御心ならば、清くすることがおできになります
「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、
『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」
マタイによる福音書8章2節
ある教会でこのようなことを話してくださった方がおられました。「子どもが小さかった時、重い病気にかかり、当時通っていた教会の牧師先生にお祈りをお願いしました。『御心でしたら癒やしてください』とお祈りされました。何故、癒やしてくださいではなく、御心でしたら、と祈られたのかと、私は素直に聞けず、また非常に悲しかった思いをしました。」
病床訪問する時、「早くお元気になってください」などと言いたくなるのが人情ですが、この方の言葉が主イエスの病気の癒やしを伝える箇所を読むたびに心を横切るのです。福音書には主イエスによる病気の癒やしの出来事がいくつも語られています。多くの場合、様々な病気を患っている人々—目の見えない人、体の不自由な人々、悪霊に取り付かれている人たち—が主イエスに憐れんでいただきたいと願い出ることから、或いはその人々を主イエスがご覧になり、深く憐れまれることによって癒やしの御業がなされています。ルカ福音書17章で語られている重い皮膚病を患っている人々の癒やしにおいても、患っている人々が、憐れみを願っています。
しかしながら、マルコ福音書1章40節以下及びその並行箇所で語られている「重い皮膚病を患っている人の癒やし」の出来事は本人は直接憐れんでくださいと訴えてはいません。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ています。
「重い皮膚病」とわざわざ語られていることで、この人が負わされている社会的、宗教的に差別され、負わされている苦悩は幾重にも取り巻き、絶望の日々を送っていたことが伝わってきます。この病は他の病とは異なり、ただ単に癒やされるのではなく、清められなければならない病でした。だからかも知れません。主イエスの御前にひれ伏すしかなかったのでしょう。
癒やしの奇跡の出来事の多くが、「ご覧になって」、「深く憐れまれて」と主イエスから声をかけられているのに対して、この人は憐れみを乞う前に主イエスの意思を尊重しています。御心ならば…と、あなたがそうしようとお思いになるならばと、憐れみをこいねがう相手に対する深い信頼を込めて願い出ています。そこには自分には理解できないことでも、不可解なことであっても、神の深いご計画が隠されているならばそれを引き受けます、あなたは決して不幸のままに終わらされないからですという信頼、信仰が込められているのではないでしょうか。
病気の時、「祈ってほしい」という願いの中には、早くよくなるように、信仰があれば癒やされる…と慰めや励ましを求めていることが多いように思えるのです。医学的に見込みがないとご本人も知っていても、奇跡を願う思いはどこかにあるように思うのです。事実、末期がんから生還した方もいらっしゃいます。信仰があれば治ると思いたいのではあります。治りたい、治る、でも治らない、という時の葛藤は、信仰を持っている場合と、そうでない場合は違ってくると思えるのです。
そのような葛藤を主イエスはゲッセマネの園での祈りを通してご自分のものとされています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
病気が治る、治らない、願いが叶う、叶わないは本人にとって大きな問題であることに間違いないことです。病気の子どものために祈ってほしいと願った方は、「御心のままに」という祈りに悲しい思いをされたと語られましたが、その方にとって「御心でしたら」という言葉をずっと思い巡らされていたのでしょう。そこから、主イエスの御意思がどこにあるのか、何であるのかを問う、新しい信仰の歩みをされていったのではないかと思えるのです。その時は受け止めきれなくても、じっと見守って下さっている憐れみの中に置かれていることを信じてゆきたいと思うのです。
日本福音ルーテル八王子教会牧師 中村朝美
ルーカス・クラナッハ(父)作「ゲッセマネの祈り」(1518年頃)東京・国立西洋美術館所蔵