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バイブルエッセイ

キリストが語る

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

(ヨハネによる福音書1・14a)

言葉があまりに力なく思える時があります。言葉を口に出したその瞬間から空中に霧散していくような、あるいは、言葉が誰かの中に届くことなく世界の表面を滑り落ちていくような、そんな感覚があります。どれほど言葉を尽くしても空虚さが募っていくと感じることがあります。いえ、言葉を尽くすことさえ、もはやできていないのかもしれません。現代では、この世界の多くの言説について、考えたり、判断したり、掘り下げたりすることが避けられる傾向があるように思います。その原因の一つは加速する時代の変化かもしれません。情報化、グローバル化された現代社会では、あまりに多くの情報が私たちのもとに届きます。世界中の動きが時々刻々と伝わってきます。私たちの世界は、ある意味で、あまりにも拡大されてしまっています。その中では、一つ一つの情報を精査する余裕がありません。入ってくる情報をとりあえず処理していくことになります。そこで重宝されるのが、印象、単純さ、わかりやすさです。私たちは、日々、あまりに多くの情報を処理していく中で、いつしか、複雑で、わかりにくい、掘り下げた議論などを、もう受け付けにくくなってきているのです。そうなってくると、言葉は見た目だけどんどん派手になり、中身は置いてけぼりになります。言葉は重みを失い、言葉がとても空虚なものになってしまいます。現代においては、言葉、言説、語りというものが命を失っているようです。そのような世界の中で、私たちは神の言葉さえも氾濫する空虚な言葉に埋もれて見失っているのではないでしょうか。

 フランスの哲学者ミシェル・アンリは著書『キリストの言葉』の中で「今日、〈神の言葉〉は単に理解されないままであるばかりか、〈神の言葉〉なるものがありうるということすら考え及ばなくなっている。」「現代社会の絶え間ない喧騒こそが、そこから〈神の言葉〉が語り出される沈黙の領域を永久に覆い尽くしてしまったのである。われわれにはもう〈神の言葉〉が聞こえないのだ」と述べています。この本の邦題は『キリストの言葉』となっていますが、フランス語の原題は”Paroles du Christ”で、『キリストの語り』とも訳せます。フランス語の聖書ではヨハネによる福音書1章1節の「初めに言があった」のところが”Au commencement était la Parole” と書かれていますので、神の言葉はキリストの語りだと言うことができます。私たちが神の言葉を世界にあふれる情報の一つとして処理してしまううちに、それがキリストの語りであることを忘れてしまっています。語りには、語っている生きた主体があり、息遣いがあり、思いが込められていますが、その語りを聴くには静かに耳を傾ける時間と場所が必要です。語りは語られる客体ではなく、それを聴いて受け取る者の〈生〉に到来するのです。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とは、どういうことなのでしょう。どのようにして言が肉になるのでしょう。この聖句を聴いて私たちは戸惑います。しかし、この戸惑いが私たちにとって大事なのです。神の言葉は、私たちが情報処理する対象としてではなく、語りの主体としてのキリストが私たちの〈生〉に迫ってくるのです。私たちは神の言葉の主体ではないのです。神の言葉は客体として私たちの外にあるのではなく、私たちを生かす命として私たちの内にあり、常に私たちに語りかけます。人の口から出る言葉は無力だとしても、内なる神の言葉は私たちの〈生〉を揺さぶります。そして、どんなに私たちが世界に絶望しようとも、神の言葉はキリストが主体であるがゆえに、私たちに語り続けます。キリストの語りが肉となって私たちの内に宿られたのですから、もはや私たちの〈生〉はキリストと共にあります。そのことに信頼して、言葉の氾濫に埋もれてしまうことのないように、神の言葉に耳を傾けましょう。

日本福音ルーテル日吉教会牧師 多田 哲

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