恐れからの救い
「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」 (マルコによる福音書4・35~41)
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」これは、2000年前に嵐の中で震えていた人たちに対するイエス様の問いかけです。もしもイエス様が今日、肉体をとって地上に来られるなら、同じ問いがイエス様の口から発せられるでしょう。
ルイス・ブラウンという学者が、石器時代の原始人について、こう語っています。「はじめに、恐れがありました。恐れは人の心のうちにありました。そして人を支配していたのです。恐れはいつも人を圧倒して、人に安らぐことを赦しませんでした。風の激しいざわめき、雷鳴の轟き、待ち伏せする野獣の唸り声が、人を恐れで揺さぶりました。人の毎日は恐れで塗りつぶされていました。人の世界には危険が充満していました。原始人は、すきま風が吹き込む穴倉で傷を癒しながら、恐れに震えるほかなかったのです。」
さて、現代人である私たちは、いろいろな面で進歩発展を遂げてきました。快適な家に住み、車に乗り、文化的な生活を送れるようになりました。しかし、それでもなお、古代人と同じように心に恐れと不安を持ちながら生きています。何故なのでしょうか。
イエス様は、私たちに恐れるな、怖がるなと言われます。イエス様は一人一人が持っている恐れを取り除いてくださる方です。キリスト教は「恐れからの救い」を与えてくれます。
神さまが救い主の誕生を知らせるために、天使を遣わされましたが、その天使はたった一回だけ説教する機会が与えられました。その説教の言葉が「恐れるな」でした。ルカによる福音書2章10節の言葉です。
人生の最悪の敵、それは間違った恐れです。しかし、基本的には、恐れは良いことです。神さまは、人間に自らを守るために恐れるという能力を備えてくださいました。愚かな者は恐れるということを知りません。旧約聖書の箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」とあります。
さて、マルコによる福音書4章35節以下を読みますと、イエス様と弟子たちはガリラヤ湖を渡ろうとしていました。すると突然、嵐になり、波が高まって、船に水が入ってきました。彼らは怖くなりました。どうしてでしょうか。彼らは嵐に比べて自分たちの力が小さすぎると思ったのです。それで沈みかけたのです。自分は小さい者だ。自分にはかなわない。その思い、それが、誰もが恐れる理由です。人はいろいろな出来事に出会って恐れと不安と心配をいつも感じながら生活しているものです。どうすれば恐れ・不安から癒されるでしょうか。
イエス様は「まだ、信じないのか」と言われました。恐れを癒すたった一つの方法、それは「信仰」です。信仰は恐れを取り除いてくれます。しかし、間違ってはなりません。
この信仰とは、嵐が起こるたびごとに、神を呼び求めると神はすぐ嵐を静めてくださるという意味ではありません。イエス様は、時には波風に向かって「静まれ、黙れ」と言われます。ある時には私たちの状況を変えられることもあります。また別の時には、私たち自身を変えてくださいます。私たちの人生にはいろいろな苦しみ不安、心配などが次から次へと出て来ます。それが自分で解決できない時、舟に乗っている弟子たちのように「先生、私たちが、おぼれてもかまわないのですか」と恐れから不平、不満を神さまに、時には回りの人たちにぶつけてしまうことがあります。
その時、イエス様は嘆かれます。「なぜ、信仰がないのか」と。イエス様はいつも私たちと共にいてくださる方です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28章20節)とイエス様は言われます。このみ言葉を信じる信仰が、私たちをすべての恐れから救い、恐れを取り除いてくれるのです。アーメン
日本福音ルーテル日吉教会 牧師 齊藤忠碩