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バイブルエッセイ

驚くべき十字架

《人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。》マルコによる福音書10章45節

聖書は、神の子イエス・キリストが、この私たちに仕えるために来られたことを宣言致します。これは何と驚くべき言葉でしょうか。父なる神さまとご一緒に、この世界を造られた、またこの世界をご支配しておられる神の子が、あの人の子イエス・キリストが、こんなちっぽけで、罪深く、「思うように生きられない」と嘆くしかない私たちに仕えてくださる、実に主はそのためにきてくださったと語られているのです。
しかし、果たして本当に私たちは、この言葉に
驚きを覚えているでしょうか。どこかこの驚きを見失ってしまっている私たちがいるのではないでしょうか。では何故驚くことが出来なくなってしまっているのか。それは、主の言葉に従い得ていないからです。もっと言えば、主を見習って生きてはいないからです。この御言葉の前にはこんな言葉がある。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。そして、なぜならば、と上記の御言葉が続くのです。私たちがこの主のお言葉に驚き得なくなっているのは、どこかで主に仕えられることを「当たり前」のこととして受け取っているからではないでしょうか。「仕える」ことの困難さは、実際に「仕え」て見なければ分からないのです。主が私たちにお仕えくださったように、私たちも実際に人に仕えてみる。その時に、初めて分かる。人に「仕える」ということが如何に困難であるか、ということを。しかもそれは、いつも自分たちに好意的な人物に仕えることを意味するのではないのです。感謝もされない。むしろ疎んじられたり、「やって当たり前」とばかりに、わがままで自分勝手なことばかりを要求するような人にも仕える。怒りが込み上げてくる。理不尽さに泣けてくる。文句や不平などを「ぐっ」と押し殺しながら、唇を噛み締めながら「仕える」ということだって起こってくる。しかしそれは、私たち愛に乏しい欠けだらけの弱い人間だからであって、神さまやイエスさまはそうではない、と思われるかも知れない。しかし私は、「神さまだから平気だ」「イエスさまだから平気だ」と考えるのは間違っているとも思うのです。罪に対しても、人の悪に対しても、私たちの方が遥かに鈍感なのです。ある意味、同じ罪人同士として、同じ穴のむじなとして、「しかたがないよね」とばかりに物わかりの良ささえも持ち合わせていたりする。そうではなくて、私たちと同じ人でありながら罪を犯したことのない神の子が、私たちに仕えてくださるのです。罪人同士でもない、同じ穴のむじなでもない神の子が、罪人の私たちに仕えてくださる。自分勝手で、わがままで、感謝もせず、常に不平不満を言うような、どうしようもない私たちに仕えてくださる。それが十字架なのです。決して「当たり前」のことが起こったのではないのです。罪に対する激しい怒り、決して赦せないというご自身の思いに徹底的にぶつかって、それでも赦すことを、愛することを徹底的に選び取ってくださった。ご自身の命を私たちの身代金として差し出すほどに、私たちに仕えてくださった。そんな十字架の出来事だからこそ、「驚く」のです。こんな私(たち)のために、どうしてここまでしてくださるのか、と「驚く」のです。それが「多くの人の身代金として自分の命を献げ」てくださった主イエスのお姿に他ならないからです。
十字架の出来事は決して分かりきった自明の出来事ではないのです。「どうしてそこまで」というまことに不可思議な「驚く」べき出来事なのです。私たちは主のご受難と復活に向かうこのレントのとき、もう一度この新鮮な「驚き」を取り戻す歩みをしたいと思うのです。また事実、この「驚く」べき出来事が、この私(たち)の上に既に起こっている、ということを信じていきたいと思うのです。

清水教会・小鹿教会牧師       浅野直樹

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