自分のそばに置くため
「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコによる福音書3・13~15)
ルーテル神学校の創設に尽力されたスタイワルト先生は、この『馬子傳福音書』をいつも手もとに置いておられたと伺っています。この聖書はヘボンとブラウンがひそかに世に送った木版刷りのもので、マルコ福音書で現存する最も古い日本語訳です。
明治のはじめ、1872年といえば、まだキリシタン禁制の高札が掲げられていた、いわば迫害のときでした。長崎の浦上の人たちが捕えられ、津和野をはじめ各地に送られ、多くの人が殉教された時代でもありました。スタイワルト先生はいったいどのような思いで、この『馬子傳福音書』のページをめくっておられたのでしょうか。
今回与えられました御言葉ですが、『馬子傳福音書』では次のようになっています。「さて山にのぼりて こころにかなふものをよびしかば 彼にきたれり すなわちおのれとともにをり また教をのぶるためにおくり かつ病をいやし 鬼をおひいだすの権威をもつために 十二人を立たり」。実に簡潔ですが、とても正確に翻訳されています。
新共同訳には「使徒と名付けられた」という文章がありますが、実はギリシャ語の本文(ほんもん)では、この部分は[かっこ]に入っています。それは、もともとこの文章はなかったのに、後代に付け加えられた可能性が高いとされているからです。『馬子傳福音書』にも「使徒と…」という文章はありません。なぜこのようなことを書かせていただいているのかと申しますと、イエスさまは12人に限らず、私たちをも招き、私たちの名を呼んでくださっているからです。それは、「そばに置く」および「派遣し」という言葉が、原文で「現在形」によって表現されていることからもわかります。
つまりイエスさまは「今・ここで」、ご自身のそばに私たちを置きつづけ、神さまご自身のご宣教の御業に与からせていただくために、私たちを派遣していてくださるのです。そのために、私たちの名を呼んでくださっているのです。何という恵みでしょうか。
今年、私たちは「宗教改革500年」を記念いたします。ルターはいわゆる「95箇条の提題」と呼ばれる神学討論を提示しましたが、その第1条に、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい・・・』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」と記して、日ごとの悔い改めを勧めています。
「悔い改め」という言葉を聞くとき、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら・・・神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18・13)と祈った徴税人のことを思い起こします。この徴税人と対照的なあのファリサイ派の人のようではない、と私たちは思い込んでいないでしょうか。
日常生活の中で、私たちは神さまの御前にいつも罪を犯しています。他人をねたんだり、自分が正しいと思うときには親しい人とも言い争ったりします。その人のためにと思っての一言やちょっとした態度が、相手の心を傷つけてしまう場合も多いのです。しかしながらイエスさまは、そんな弱い私たちの全ての罪をご自身の十字架において担ってくださり、私たちを罪と死から自由にしてくださいました。主イエス・キリストに結ばれ、主ご自身を身にまとう者としてくださいました。宗教改革を記念するこの年は、「日ごとの悔い改め」の大切さを、主から教えていただき、日々赦しの恵みのうちに生かされるときでもあるのです。
「自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ・・・」との御言葉を聴くとき、主が私たちの罪をいつも赦し、私たちと共に居てくださり、私たちのまわりの方々に仕えることができるように、私たちを慰め、励まし、整えていてくださることを思うのです。自分が苦しい状況に置かれているときにも、その相手の人に、「主なる神さまの平安がありますように」、と祈ることがゆるされているのです。
日本福音ルーテル教会 引退教師 乾 和雄