神の愛の鞘におさまる
「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の言い伝えを固く守って・・・」
マルコによる福音書7章3節
「カズ、ヘペッチだって」と子どもらが話しをしていたブラジルの教会学校の風景がよみがえってきました。「ヘペッチ」は、英語のリピートにあたり、留年ということです。小学校から留年があるのには驚いてしまいました。落ちた子を決して軽蔑して言っているのではないのです。むしろ、子どもらはそれが当然であり、互い受けとめあっているのがよく分かりました。
ファリサイ派の人と律法学者が、ここにでてきます。この人たちは当時の社会では大変に尊敬されていました。イエスさまも実はファリサイ派に近いところで育てられたのではないかといわれています。この人たちは実に律法を守るということに忠実でした。律法を守ることによって神に愛されると考えた実に真面目な人でした。ですから律法を守らないということが、とても気になるわけです。「そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』」(7・5)と尋ねたのです。それは彼らからすると当然の言葉です。しかし、ここには守る者、守らない者という差別が生まれてくるのです。守る者が神に愛されるのにふさわしいと考えるようになるのです。
その結果が人間くさい努力主義になってくるのです。律法を守りさえすれば成功という人間が中心に出てくるのです。この律法を守るために努力している自分こそが正しいものであって、努力しない人間はだめだということがまかりとおってくるのです。実に人間くさいものになる、だからイエスさまは、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(7・8)と言われるのです。
今、教育現場で、競争をさせてもっと子どもらの学力をあげていこうということが叫ばれたりもしています。それ自体、聞いていると何の問題もないように思えますが、実は、競争に遅れたものはだめだという差別化が起こるということです。まさにファリサイ派のような動きが起こるのです。
では、最初に言いましたブラジルの子どもの例とどう違うのかということです。一人一人の存在が保証されているというカトリックの信仰が根底にあって、それぞれが生かされた平等な存在であるといことです。
勉強は大切です。そこでヘッペチしたとしても彼はだめな子ではありません。私たち一人一人が生かされた存在であるというところから自分自身を見ていきます。結果として落第することもありますが、これで人生が終わりであり、未来が決められていくのではないということです。
本来、律法を守るということは、神から存在することを許され、保証されている出来事のなかで、律法を守る者として選ばれた者は、人を差別化するために律法を守るのでなく、喜びの生き方として律法を守るのです。
荒井献氏は「旧約を超えて、新しい契約を携えて現われたと言えるイエスは、人間の作った掟に縛られている人々を元来のユダヤ教精神に返し、神とともにある喜びの生き方を取り戻そうとしたのだ」と言っているのはうなずけます。
「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」(7・13)
この言葉はまさにそのことを言っているのだと思うのです。私たち一人一人は神に愛された存在であるというところからすべてを見ること、恵みの関係から今をみるとき努力主義から解放され、私たちは自由に、すべてを喜びと感謝をもってなすべきことをなせるのです。
競争原理がますます強くなっていく社会にあって、私たちの生き方が根底から問われています。私たちは、人間くさい鞘に収まらず神の愛の鞘に収まること、神の愛の場所に自分をもどし、喜びと感謝をもって、神の律法をよく生きていきましょう。
「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、すべての戒めを守れ』これこそ、人間のすべて。」
『コヘレトの言葉』12・13
大森教会牧師 竹田孝一