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バイブルエッセイ

泊まる場所のないすべての者たちへ

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。 宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。ルカによる福音書2章6〜7節

最近の大学生の中には、お昼ご飯をトイレで食べる学生たちが少なからずいる、という話しを聞いておどろきました。学食やラウンジでひとりでご飯を食べていると、「あいつは一緒に食事をする仲間のいない淋しい奴だ」、というふうに見られるので、それを避けるために、ひとりでいるところを誰にも見られないように、トイレで食事をするのだというのです。大切な仲間づくりを経験すべき学生時代に、ひとりで居ることを恥じつつトイレで食事する学生たちの話しを聞いて、この人たちもまた、居るべき場所がない人たちなのだと思わされました。

わたしが学生時代に通った大阪の釜ヶ崎では、バブル期であったにもかかわらず、多くの方々が路上での生活を余儀なくされておられましたし、東京で暮らしていた頃には平成不況のあおりを受けて、近所の公園がみるみるうちにブルーシートやキャンプ用テントで埋まっていく様子を肌で感じさせられました。いずれも居るべき場所を失いながら、なんとか生きるための場所、自分が居るべき場所を確保しようと、悪戦苦闘しておられた方々です。

そして今また、3・11以降の社会状況の中で、自分の場所を追われて仮住まいをする数多くの方々の物語を、わたしたちは耳にします。

クリスマスの物語は、まさに居場所を得られなかったひとつの家族の物語です。若きヨセフと身重のマリアが自分たちの町を旅だった理由は、皇帝アウグストゥスの命により、一族の出身地であったベツレヘムで住民登録をするためであったと伝えられています。身重のマリアを慮って旅の歩みが思ったようにはかどらなかったのか、ふたりがベツレヘムの町に入ったとき、すでに町の宿屋はどこもいっぱいで、宿屋にはヨセフとマリアのための場所は残されていなかった、というのです。

その居場所の無さは、イエスさまの誕生の後も続いていきます。地上のいのちを受けたばかりのイエスさまは、猜疑心の強いヘロデ王の追っ手を避け、遠くエジプトの地にまで逃避行を続けねばならなかったからです。故郷であるガリラヤのナザレから、一族の出身地であるベツレヘムへ。そして異郷の地であるエジプトでの寄留生活へ。思えば、クリスマスにはじまり、ゴルゴダの丘の十字架へと向かうイエスさまのご生涯の全体が、寄留の生涯そのものであった、というふうに言うことも出来るでしょう。

そして、だからこそイエスさまの地上での最後の言葉として記録される次の言葉が、重く、味わい深いものとして、わたしたちの心に響くのです。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。インマヌエル。それは、イエスさまの誕生にあたって、天使によって告げられた約束の言葉でもありました。

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイによる福音書1章23節)

地上にあって、居場所のない生涯をおくられたイエスさまが約束の言葉を下さる。それは、わたしはいつも、あなたとともにいる、という約束の言葉でした。釜ヶ崎の路上にも、公園の片隅のテントにも、放射能を逃れて仮住まいをする母子家庭の食卓にも、インマヌエル。わたしはいつもあなたとともにいる、という約束の言葉が告げられます。その言葉は、大学のキャンパスのトイレで、ひとり淋しくパンをかじっている学生のかたわらに立たれるイエスさまの言葉でもあります。クリスマスのこの時、居場所を追われ、泊まる場所のないすべての者たちに、インマヌエル、という約束の言葉が告げられているのです。
日本福音ルーテル健軍教会・甲佐教会牧師 小泉 基

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