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バイブルエッセイ

恵みに溢れて

「生涯、彼を満ち足らせ、私の救いを彼に見せよう」詩編91編16節

この度、P2委員会からLAOS講座別冊『人生6合目からの歩み』が出版されました。私たち日本人は、平均寿命の飛躍的な延びによって、人類が今まで経験したことのない領域を生きています。 これは恵みであると同時に、大きな課題でもあります。歳をとっていくことは、多くのものを失っていくことかも知れません。例えば健康、役割、関係、伴侶、そして、何よりも時間。老いていくことは喪失していくことでもあるのです。
しかし、ますます増えていくものがあります。それは「恵み」です。確かに多くのものを失いますが、しかし、恵みはますます「私」に溢れていくのです。とすれば、歳をとることはまた「希望」でもあるのです。

よく、老齢期を厳しい冬の季節として表現することがあります。青春から始まって人生を朱夏、白秋、玄冬などと表現します。しかし、私たちの人生を季節で表現するだけでは十分ではありません。なぜなら、人生は「旅」だからです。そして人生を旅として受けとめるとき、老齢期は希望の時期でもあるのです。神に支えられ、導かれて生きてきた長い人生の旅路、喜びばかりではなかった人生の航路、しかし、その旅がいよいよ終わりを迎えるとき、それは神さまの祝福の時でもあるのです。永遠の「命の冠」を神さまから受ける「勝利の時」なのです。老齢期、確かにそれは一番厳しい時であるかもしれません。若い頃のように自由に動き回ることもだんだん出来なくなってきます。

しかし、長く航海を続けてきた船だって、港に近づくとき速度を落とすものです。そう、私たちの人生の港、それは天の御国です。天の御国こそ私たちの永遠の港なのです。つまり、老齢期は希望そのものなのです。そして、これまで人生の旅路を導き、支え続けてくださった神の恵みを思い、喜びと感謝がわき上がってくる「時」でもあるのです。希望がますます確かになっていく「時」なのです。

パウロは言います「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神とのあいだに平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光に与る希望を誇りにしています。~希望は私たちを欺くことがありません。」ローマ5・1~5。つまり、歳をとっていくことは、私たちが、ますます強く深く恵みを自覚することでもあると思います。歳を取ることはますます恵みに溢れていくことなのです。例え肉体的に衰えてきても、私たちは信仰による希望に於いて完全に救われているのです。

パウロは、直接老いについて言及してはいないように思いますが、彼の病の理解を知ることは出来ます。新約聖書で「病」を表す言葉はアッセネースという語ですが、パウロに於いては重要な神学的な意味を持っています。 パウロはこの言葉によって身体的な病気を表すだけでなく、もっと広くそれを「弱さ」として神の前にある人間の普遍的事態を現しています。(Ⅰコリ2・3、Ⅱコリ12・9、ガラテヤ4・13)ここから私たちは老いというものを考えることができます。老いはある意味「弱さ」そのものの経験だからです。

パウロは言います「だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう。~なぜなら私は弱いときに強いからです。」Ⅱコリ12・9以下。
そう、キリストの力は、弱さの中でこそ十分に発揮されます。われわれの弱さ=老い、病は、キリストにより、主ご自身の力=恵みを受けるところとなり、私たちは真の強さに与るのです。その為に私たちは、洗礼に与ったのではありませんか。ルターは「あなたが絶望していても、洗礼は決して空しくならない。」

「洗礼に於いて考えられるべき第一のことは、神の約束である。」と語っています。
そう、私たちの希望は、洗礼を根拠とした希望なのです。私たちの希望は、単なる希望的観測ではなく、洗礼を根拠とした確かな希望なのです。そして、その洗礼の希望は、礼拝に於いて御言葉(説教)と聖餐によって絶えず新しく経験され、私たちはますます命と恵みに溢れて日々を生きるのです。「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々新しくされていきます。」Ⅱコリ4・16とパウロが語るように…。

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