忘れていた祈り
天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」
そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(ルカによる福音書1・13、18〜20)
この頃、私はしきりに、定年で退職されたある2人の牧師の言葉を思い起こします。1人は私が牧師になって3年目のこと、退職され、遠い地方にいる息子さんのところへ身を寄せて行かれました。退職後、程なくしてお手紙をいただきました。手紙には「こんなに遠く離れたところに来てしまいました。暗闇のトンネルの中に入ってしまいました。」と記されていました。2人目は一緒に働いた宣教師の方です。やはり定年でアメリカに帰られ、その年の暮れにいただいたクリスマスカードのメッセージは「アメリカの教会では今クリスマスのいろいろな催しで、みんな楽しそうに過ごしています。しかし、ここでは私は傍観者に過ぎません。」というものでした。
このお2人のお手紙を読んだ時に、まるで、松尾芭蕉の「野ざらし紀行」を読んだ時のような、胸を突かれる思いを持ちました。と同時に現役を退く際の試練と課題の大きさに圧倒されて、何と返答すればよいか分からず、言葉に詰まってしまいました。そして、そのことがあって以来、時折、自分が高齢になった時にどうしていくかを少しずつ考え、積み重ねていくように心がけてきました。
「あなたの願いは聞き入れられた」(ルカ1・13)と天使に告げられた1人の老人を思い起こします。エルサレム神殿の聖所で香をたき、祈りを捧げるという大事な務めを果たしていたザカリアに天使の声が響いてきます。その願いとは、「あなたの妻エリサベトは男の子を産む、その子をヨハネと名付けなさい」(同)というものです。ザカリアはこの突然の告知に驚いて
「何によって、私はそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(同1・18)と応えています。このザカリアの驚きと、信じられないという思いは、当然のことと思われます。しかし、天使はこのザカリアの応答を不信仰として、子が生まれるまで「話すことができなくなる」と告げたのです。そして事実そのようになります。
ザカリアが神殿で祈っていたことは、後にシメオンについて「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」(ルカ2・25)、つまりイスラエルが救われることを待ち望んでいたと言われているように、当然ザカリアもそのことを祈りつつ神殿での務めを果たしていたということでしょう。それに対する神さまの答えが「その願いは年老いたザカリアの家にやがて生まれる子の働きを通して達成されるのだ」ということでした。
ザカリアにしてみれば、神がイスラエルの救いをもたらしてくださるのは喜ばしいことではありますけれども、年老いた自分たち夫婦に子が与えられることを通して起こるなどということが、どうして信じられましょうか。それがその時のザカリアの心にあったことだったと思います。そして、その結果ザカリアは沈黙を強いられることになります。けれども、この沈黙が今までのザカリアの生き方を見直すきっかけとなっていきます。
子どもが与えられること、それは、ザカリア夫妻が若い頃に願っていた個人的な心からの祈りであったかもしれません。年老いた今では、すっかり忘れてしまった、今では全くあきらめてしまっていたことではなかったかと思います。
聖書を読んでいきますと、至るところで不思議な言葉に出会います。たとえば「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え」(創世記50・20)、「ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ8・28)などです。
ここに来て神のご計画について考えさせられます。「万事が益となる」ということは最悪のことからも善が引き出される、どんなに悲劇的な状況も、神はそれを創造的な業に展開する力があるということを言っているのです。
退職という人生の転機を神はどのように導いてくださろうとしているのか、思いを巡らせます。主が示してくださる道をなお信頼して。
日本福音ルーテル飯田教会 牧師 大宮陸孝